第4回関西詩人協会詩話会 追悼 杉山平一氏
 「杉山平一さん『希望』を語る」が開催されました。


平成24年5月26日(土)西宮市民会館401号室において詩話会がプログラムを一部変更し予定通り開催されました。ご講演をして下さる予定だった杉山平一さんが5月19日にお亡くなりになりましたが、佐古祐二さん、涸沢純平さんが急きょご講演をしてくださいました。

まず神田さよさんの司会で、開会に先立ち杉山平一さんの御霊に黙祷を捧げました。つづいて有馬敲代表に代わり横田英子さんが「杉山先生はこの会を楽しみにされておりました。資料も揃えておられました。たいへん残念でたまりませんが、後から先生の詩を朗読される方は、先生がここにおられると思い朗読してください」との開会のことばがありました。

講演Tは佐古祐二氏が「杉山平一さんが残した言葉」と題してお話されました。杉山さんがめざした詩がどのようなものであったかと杉山さんの言葉を引用して説かれました。
『詩人杉山平一論――星と映画と人間愛と』を出版されたときに、杉山さんはたいへんお喜びでご満足されていたという逸話を披露されました。詩集『希望』において第30回現代詩人賞を受賞、6月2日には授賞式を控えての急逝でした。抒情の科学、人間の目の見え方、分析、杉山詩には映画の技法のように、抒情を科学的、知的に観察するものであったのではないかと結ばれました。
(講演の全容は佐古祐二氏の許可を得て文末に掲載しています。)
つづいて涸沢純平氏が「杉山平一さんの十冊の本」と題してお話されました。編集工房ノアでは9点(1点は上下本)計十冊を発行されました。同社は1975年創業でこれまで多くの詩集、関連書籍を発行されましたが、杉山氏による『三好達治』『全詩集(上下巻)』のほかにも散文詩集、小説、童話などの出版があり、いくつかは本の実物を示しながらこぼれ話などお話されました。そして、杉山氏は自分の人生を貫かれたと感慨を述べられました。詩の一節「星の光でピアノは鳴るだろうか」という一節は科学者の眼であり、北半球でまれにみえる星カノープスを初めて見たのは息子さんを亡くされた後で、心の澄み切った時であり、その後はずっと濁った眼だったの見なかったものが、また年を重ねた晩年に見えたときの新たな感動、それは澄み切ったこころだから見えたのではないかと話されました。




その後、2002年第1回「詩で遊ぼう会」於京都で杉山さんが朗読をされたCDが永井さんより披露されました。張りのある声で朗々と読まれるのを拝聴すると、まるで窓側の座席におられるように思われ、深い感動に会場内が静まりました。 
つづいて朗読『希望』より会員の朗読がありました。「希望」(奥村和子)「驟雨」(蔭山辰子)「待つ」(梶谷忠大)「バスと私」(清沢桂太郎)「洗う」(佐藤勝太)「答え」(ますおかやよい)皆さんが心を込めて朗読されました。


    希望     
              杉山平一
  夕ぐれはしずかに
  おそってくるのに
  不幸や悲しみの
  事件は

  列車や電車の
  トンネルのように
  とつぜん不意に
  自分たちを
  闇のなかに放り込んでしまうが
  我慢していればよいのだ
  一点
  小さな銀貨のような光が
  みるみるぐんぐん
  拡がって迎えにくる筈だ

  負けるな

ティーテイムを挟んで、お楽しみということで参加者による五行詩の創作・披露がありました。お題は「待つ」でした。




好天に恵まれアネモネ、矢車草、マーガレットが道に咲き乱れていた西宮市民会館、48名の参加者にとり杉山先生の寛大なお人柄とご偉業を偲ぶことができた一日でした。




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杉山平一さんが残した言葉
                           佐古祐二


今日は、佐古祐二です。
杉山平一さんが1週間前の5月19日午前9時21分に、肺炎で入院中に亡くなられたことは、大きな星を失った思いです。僭越ですが、私から、杉山平一さんが残した言葉をご紹介することで、何とかこの場での代打の責めを果たしたいと思います。と申しますのも、それらの言葉を通して、杉山さんの人となり、また、杉山さんが目指した詩がどのようなものであったかを、浮き彫りにすることができるであろうと思うからです。
杉山さんからいただいたお便りからも、私が独り占めしておくのはもったいない言葉があります。差し支えないと思われる範囲で、ここでお話することを、杉山さん、ご了承くださいね。今、空の上で、笑ってくれています。

今日は、主催者から、あまり難しい話でなくていいよと言われていますので、雑駁な話になるかもしれませんが、ご了承くださるようお願いします。

さて、杉山さんは、戦前1941年に出された『映畫評論集』が最初の文芸上の仕事でした。杉山さん27歳のときの発行です。当時の定価は1円40銭でした。ちょうど70年前のことです。その2年後に出された詩集『夜学生』で文芸汎論詩集賞を受賞されて以降、いくつもの著作を著され、1994年の詩集『青をめざして』を経て、本日、何篇かが朗読される予定の詩集『希望』の刊行という、今日に至る70年余りもの長きにわたるご活躍をされてきました。にもかかわらず、何故か、杉山さんに関しては単行本の形でまとまった評論がありませんでした。なので、私は、2002年10月に『詩人杉山平一論 星と映画と人間愛と』という評論の単行本を竹林館から出しました。今日に至るも、杉山さんに関する単行本の評論は見当たらないといってよいでしょう。

この評論の発行に先だって、原稿を杉山さんに見ていただいて、本の標題を『詩人杉山平一論』とするつもりであるが、副題を杉山さんの文芸の仕事を象徴するものにしたいと考えており、希望や上への思いを表す「星」と杉山さんの詩作のもう一つの軸足である映画評論を表す「映画」という二つの言葉を入れようと思っているが、落ち着きのいいようにもう一つ言葉を探していることをお話すると、杉山さんは、しばらく考えて「人間愛」という言葉を提案されたのです。それまで、杉山さんに関する評論は、一般にモダニズムの影響や機知に富んだ詩風を挙げるのが通例であったので、ご本人が「人間愛」を持ち出されたことに、私は最初少し意外な印象を持ちました。ですが、「人間愛」は、杉山さんの詩の本質を、一言で言い得て妙である言葉だとすぐに得心した次第です。

杉山さんは、まめで誠実なお人柄でした。
折に触れ、私のような者にも、お便りをいただきました。

『杉山平一論』を出した折には、早速出版の翌月には、まず
「『詩人杉山平一論』拝受。コンパクトで瀟洒な本になっていて、ホッとしてうれしく早速ざっとですが拝読、よくも全体に亘って眼配りして頂いたものとあらためて御礼申し上げたいです。焦点をしぼるのに苦労されたと思いますが、それだけに全体像の紹介書としてすばらしいものになっているのではないでしょうか。小生の日本映画評まで入れて下さって頬をゆるめています。」
というとり急ぎの御礼状が届いたかと思うと、しばらくして、さらに
「『杉山論』ゆっくり読みました。わかり易く分類して丁寧に案内解説 して下さって終始あたたかい目で見て頂いて面映ゆいことです。いろいろ矛盾やくだらなさにも気づかれたでしょうに。小生のニガ手の時代とのかかわりの考証が巻頭になったのには、かなり恥ずかしい思いでしたが、いろいろと見抜いて下さった点あり教示を受けました。」
などというお便りが届きました。
 これは、杉山さんが戦中に、戦争とどのようにかかわったのかかかわっていないのかについてかなり丁寧に叙述したのですが、その中で、1篇だけ「瀑布」という滝のことを戦争の言葉を使って書いた詩があり、杉山さん自身が「本心から外れたものとして、浮かれたように勇ましく大上段に戦争用に書いたのが一篇ある。」「抹殺したい一篇だが、本当は、瀑布を見たときの震えるような感動を書くのに、戦争語を利用した気持があって、心に残っていた。」と述べたことのある詩です。この詩もとりあげながら、「杉山の中にさえいつの間にか戦争が忍び入っていたことを明らかにするものであって、人心を惑わす戦争の恐ろしさを思い知らされる」などと書いたのです。その辺りのことを便りに触れられたのだと思います。

さらに私から『杉山論』が日経新聞に取り上げられた記事を杉山さんにお送りしたところ、
「その後、反響はどんなものかと案じていましたら、佐古さんより日経新聞の紹介が送られてきて、うれしく思いました。」「しばらくおいて読み返してみましたが、大分客観的に読めて御労作の苦心が見えて、あらためて、ありがたく思っています。」
などというお便りを頂戴しました。
そのお便りでは、『杉山平一論』を、大谷大学の研究者である國中治さんへ私の方から送っておいたほうがよいと助言までいただきました。

翌2003年の年賀状に、
「日経につづき、『図書新聞』というどちらかというとむつかしい新聞に紹介されたのはうれしいことでした。何かと、珍しい杉山論なので、興味をもたれている様です。」
などとしたたためたうえで、富岡多恵子さんや鶴見俊輔さんに送ってみてはどうかと勧めていただいたりしました。

杉山さんが『戦後関西詩壇回想』という本を出されて、2003年3月に某詩誌に私がその書評を発表した際には、「人間の存在を描くという要点を指摘して下さったり過分の評恐縮です。記録映画云々にはなるほどと苦笑しました。」としたためていただきました。関西の詩人の姿や言葉を彷彿とさせる杉山さんの描写を、人間の存在を描いている、あるいは、杉山さんが映画芸術に造詣が深い評論をものしていることに寄せて、さながら記録映画を見るようだと私が書いたことに対する感想を寄せていただいたわけです。
この『戦後関西詩壇回想』は、小野十三郎特別賞を受賞しています。
ちなみにこのお便りの最後には、一言、添えられていました。当時、アメリカがイラクに大量破壊兵器が隠されていると決めつけてというより、口実としてイラクに対する戦争行為をちょうど始めたところでした。杉山さんは、そのことを念頭にされてのことと思われるのですが、「戦争でさわがしいことで早く収まればと願うばかりです。」という言葉が添えられていたのです。このことは、第二次大戦の最中にも時流に流されることのなかった杉山さんらしい態度だと思いました。

2003年の11月頃にいただいた手紙には、『杉山平一論』のその後の反響のコピーを杉山さんにお送りしたところ、
「それぞれ好意ある丁寧な反応でうれしく拝読しました。」
と述べたうえで、
「もっと論評あってしかるべきと思いますが。」
との感想を述べたうえで詩界の状況を一定具体的に書いたうえで、
「とにかく詩などという狭い世界なのに何となく派閥のようなものがあるのは困ったことですが、『現代詩手帖』が東京一極集中の波にのっているので、寄らば大樹のカゲという人々がいます。」
「俳句や短歌の世界のように書道や花道のように宗匠先生のグループになってしまうのは堕落するのは、困ったことで、お互い自由に行きたいものと思っています。」
と詩界の状況に苦言を呈する文章が書かれていました。

2005年4月にいただいたお便りでは、某詩誌に、杉山さんの詩集『青をめざして』を紹介する文章を発表したことに対して、次のような言葉をしたためていただいています。
「いつも乍ら好意に満ちた言葉を頂き、汗顔の至りです。どうも詩にウィットとユーモアを求めがちですが、どうも本質は抒情らしいと(隠していたつもりでしたが)気づかされています。よい散文詩をかきたいと思っていますが、ひきこもっていると詩心もうごかないようです。御礼まで。」
 これは、『杉山平一論』の副題に「人間愛」を提案されたのと相通ずる言葉ではないかと思います。

「Bookish」という本で杉山さんの「詩とシネマと散文」という特集が組まれた際には、発行元から私に依頼があり、「杉山平一の抒情の科学」という標題で、一文を書きましたところ、杉山さんから、2006年6月、早速、
「貴兄の一文拝読、抒情の科学という面白い名付けになるほどと思いました。」「映画とうまく結びつけて下さって感謝しています。」
とのお便りをいただきました。
「抒情の科学」という名付けは、杉山さんの映画評論は映画芸術での映像技法が元来人間のものの見え方や感じ方自体が先にあって、これを活用するものであることを、具体的な例を挙げて古今東西の映画を渉猟して分析する性質のものであることと、杉山さんの詩作の方法論にはその映画芸術の技法が意識的無意識的に色濃く反映していることとを総合して、単なる情緒的な抒情ではなくて、抒情を科学するものであると思い至ったことから、私が命名したものです。
この「抒情の科学」という言葉は、杉山さんの詩の本質である「人間愛」が「抒情」と不可分である一方で、機知を面白がり人間を知的に観察する杉山さんの特質を併せ表現するのにふさわしい言葉であると、自画自賛になりますが、あらためて気づいています。

また、2006年12月には、次のようなお便りをいただきました。
「今度思潮社が近代詩文庫に小生を加えた一冊を作ってくれましたが(近く届くと思いますが)解説に諸家をお願いしましたが編集者側の意向で佐古さんの貴書からの引用がはみ出し未使用となりました(頁数の都合もあったようで)心のこりですが。」
というものです。私の『杉山平一論』からの引用も掲載することを提案したが編集者側の都合で割愛されてしまったのは心残りという趣旨のもので、私のような者にまでこうした心配りをしていただいて、恐縮の思いがしました。

私は、いつも季節の挨拶状に自作の詩を印刷してお送りしているのですが、2007年夏の暑中見舞には、あまりよい詩ができずに時間切れでやっつけで作った詩を使ったところ、杉山さんから早速、
「暑中見舞の詩 はじめの二行は目新しいですが、三、四行目はちんぷでおどろきなくしぼんでしまったという気がしました。びっくりさせる面白味がほしいというのは小生のわるいクセですが。」
と寸鉄人を刺す言葉が届きました。

そういえば、昔昔、「天使」というような意味のない言葉を安易に使うのはどうかとか、「地球」といった大きな言葉をよく考えずに使うのもどうかといった趣旨の言葉をいただいたこともありました。
詩集『希望』に、「天女」という標題の詩があります。
  その日 ぼんやり
  広場を横切っていた

  そのとき とつぜん
  ドサッと女の子が落ちてきた
  すべり台から

  女の子は恥ずかしそうに私を見上げて
  微笑んでみせた

  きょうは何かよいことが
  ありそうだ

という詩です。この詩の場合、天女という標題はふさわしい言葉であると思います。よく考えたうえでそうしていると考えます。
杉山さんの安易に言葉を使うなという教えは、以前に、私のほうから、厚かましくも押しかけるようにして、具体的な作品をお送りして、ご批評を乞うたことがきっかけで、その後も、たまにこういう言葉をいただくようになったのでした。

2010年6月には、私が「詩人会議」誌上に、杉山さんの短詩についての評論を発表した際の感想として、
「短詩の意味を適確に示して下さりうれしく拝読しました。短詩というのは、エスプリの意味で、ただ短く軽いという扱いをされるのは困ります。」
と短詩の本質をあらためて確認していただいています。

2010年11月には、四季派学会の冬季大会で、私が「杉山平一の文芸活動の全体的で構造的な把握――杉山平一の『抒情の科学』――」と題して報告した際には、大会後にすぐに、
「「四季の会」ではご苦労さまでした。図を作っての解説なるほどと感心しました。人間愛をみちびき出すのにいろいろ工夫があり『抒情の科学』といわれたのに感心しました。」
などというお便りをいただきました。
 この報告で使った図は、杉山さんの文芸活動の構造を一目でわかるように工夫したものです。大きな矢印の中に三角形を書いて、矢印の尖端には「上への思い(星)」と書き、矢印の底の方には「地上へと引きとめようとする引力(荷物)」と書きました。矢印の外側横に「よく生きようとする意志(木ねじ)」と書きました。三角形の底辺の二つの角に「映画評論」と「詩作」を、三角形の頂点には「人間愛・人間への関心」と書きました。その三角形の中央には「機関車」と書きました。星・荷物・機関車・木ねじは、いずれも、杉山さんが好んで詩の中の形象として使ったものです。

 この四季派学会の大会の報告書が、1年以上経って四季派学会論文集にまとめられたときも、今年(2012年)の2月21日付けで杉山さんから届いたお便りには、
このたび「四季派学会論集」にて2010年の学会論集を見直してみますと、佐古さんの杉山平一論は一番まとまっているように思いました。上への思いとよく生きようとする意志を、図解にてわかりやすく解説され、その例として作品の「邂逅」「よもぎ摘み」「水」「わたしの大阪地理」「微笑」と5つを挙げて解明していただいた箇所に、最も深く心を打たれました。
という言葉が綴られていました。

さて、お便りからのご紹介は以上ですが、本日のテーマは「希望」ですので、これに関連して、少し述べたいと思います。
杉山さんは、次のように述べたことがあります。
地獄に落ちたからこそ、人間の過ちや愚行にも手をのべていたわる心ができた。消毒された正義や道徳はもう恥ずかしい。
闇のなかに面伏せる者、声なきすすり泣き、に私もともに涙を流す者となれたようである。
また、杉山さんは、『現代詩入門』で、「詩ははみ出し落ちこぼれのものだ」という項目を立てて「環境でもこころでも、安定から、はみ出し落ちこぼれているとき、その抵抗から、詩は生れてくる。」と書いています。
しかしながら、杉山さんの場合、詩ははみ出し落ちこぼれのものだと言っても、俯き、蹲ってはいない。はみ出し落ちこぼれのものだからこそ、大きな希望を内に秘めている。苦悩する現実の中で希望を抱き続けてきたのが杉山さんでした。
 お通夜の席で、杉山さんが生前、家族に、自分は、映画評論、詩人、大学教授に、企業人を加えて4つの草鞋をはいて、普通の人の4倍生きたと話していたというエピソードが紹介されていました。最後の企業人というのは、ご承知のように、お父さんの会社を経営側の立場で手伝うことになったことを言っていますが、経営が傾き、債権者の鬼のような取立てや労働組合との団交などの修羅場を体験されたのです。先の「地獄に落ちたからこそ」というのは、こうした体験やわが子を幼くして二人も亡くされたことなどが背景にあります。4つの草鞋は、杉山さんの一つの人格の中で一つのものとなって統一されていたことは間違いのないことです。

私は血液透析のために週3回医療施設に送迎バスで通っていますが、その朝の車内で流れていたラジオからの音声を、聞くともなしに聞いていたところ、詩の朗読を始めました。聞いていると、すばらしい詩です。その詩が、杉山さんの本日朗読される予定の詩集『希望』に収められている「バスと私」でした。
この詩集『希望』では、現代詩人賞を受賞され、杉山さんは、6月2日の東京での日本現代詩人会での授賞式に出席するんだと楽しみにして、張り切っていたにもかかわらず、急な体調の異変で、かなわぬこととなってしまったのでした。

このように、杉山さんは、詩人の世界だけでなく、一般の方々にも愛される作品をたくさん作って来られた大詩人でした。「大詩人」などというと、杉山さんはきっと、空の上で、恥ずかしい、面映ゆいといっているのではないかと思います。黒田三郎という詩人は、杉山さんのことを「含羞の詩人」の一人として挙げました。はにかみ、恥じらいの詩人というわけです。確かに杉山さんは「俺が俺が」というようなところの決してない人でした。私のような者にまで、折に触れ丁寧かつまめにお便りをくださったことに感謝しきれない思いです。2005年には、旧制松江高校の同窓生が杉山さんの「旗」という作品を宍道湖畔の公園内に詩碑にして建立して功績をたたえたのも、若い頃から、既に愛すべき人柄であったことを裏付けるエピソードの一つではないでしょうか。

つい最近出された細見和之さんと山田兼士さんとの『対論』という本の最終章が、杉山さんの詩集『希望』について語り合っています。その中で、山田さんが、「軽いユーモアやウィットだけじゃなく、すごく深い、重い問題詩というのもあ(る)」ということを述べています。また、細見さんが杉山さんのような詩について、「こういう詩がたくさん書かれているという思い込みがあって、それを仮想敵にして力こぶ入れて書かれている詩が多いのではないか。それが現代詩を狭くしてしまっている。」と語り、山田さんが「そういう意味では原点なんですね。一度見据えて評価し直さないといけない。」と応じ、さらに、詩の状況について話し合って、細見さんは「杉山さんの詩は、詩が本来持っている広がり、もっと様々な詩があっていいということを生き生きと感じさせてくれる」と語っています。
杉山さんの詩は、今後、改めて評価し直され、深められていくことを予感させます。

 以上で、私の拙い話を終えさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

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