海の孤島としてやってこられた日本人には考えられない位の、歴史の波に揉まれてできた国のようです。
19世紀半ばに初めてルーマニア(ローマ人の子孫の国という意味)という国名が実現した。
第一次大戦後、農地解放が行われ大地主が16.3%にまで減少したが、主産物を小麦に頼るという構造は変わらなかった。
第二次大戦の前には、日独伊三国同盟に参加してソ連に対したが、1944年クーデターが起こり、戦線から離脱した。
1947年ミハイ国王はグローザ内閣に迫られて退位し、この時よりソ連寄りの「ルーマニア人民共和国」が誕生する。
1965年チャウシェスク書記長により国名を「ルーマニア社会主義共和国Republca Socialista Romania 」と規定した。
その後チャウシェスクは、1974年には新設の大統領となり絶大な権力を手中にした。
1989年の「ベルリンの壁」の崩壊を惹き起こし、更にソ連を中心にした社会主義体制の崩壊に繋がっていった。
1989年12月ティミショアラにおける市民の蜂起がきっかけとなって政変が起こり、チャウシェスク夫妻は軍事裁判に掛けられ処刑された。(彼の指導する対外債務自力変換政策のため、市民はエネルギーと食料の極端な節約を強制されていた)
1991年より政府は段階的に経済の自由化を図ってきた。(企業の民営化、物価の自由化、農民への土地返還、等)
1992年にはそれまでの救国戦線が分裂してバカロイウ(Nicolae Vacaroiu)率いる民主救国戦線が第一党となった。
(以後の記載がない、スミマセン:永井ますみ)
農業生産物は小麦、トウモロコシ、ヒマワリ、ジャガイモ、テンサイ、ブドウ
工業生産物 第二次大戦後国有化され七次に及ぶ五カ年計画で進められた。石油、天然ガス、鉄鉱、銅鉱、鉛・亜鉛鉱、石灰岩、木材など原料に富んでいる。
文化
ルーマニア人は古代の先住民ダキア人と征服者ローマ人との混血から生じた民族であるが、文化的には周辺の南スラブ、ギリシャ、ビザンティン文化の深い影響を受けており、口承文学としてのバラード、民話などにもバルカン諸国と共通の要素が多い。
1848〜49の革命に参加した詩人エリアーデ=ラドゥレスク(言語学者でもある)、アレクサンドリ、
19世紀詩人 エミネスク (国民詩人と尊称)
20世紀詩人 アルゲージ(前衛的詩法)、
ブラガ(哲学者でもある)
バコビアGeorge Bacovia 19881-1957)(印象派的傾向)、
バルブ Ion Barbu 1895-1961)((数学者でもある)、
マニウAdrian Maniu(1895-1957)(散文詩)、
ウルムズUrmuz(本名Dimitrre Iionecu-Buzau 1883-1923(前衛派)
社会主義政権下での詩人
バコンスキAnatoiy Baconsky 1925-77)
ラビシュNico-lae Labis 1935-56)
ドイナシュStefan Augus-tin Doinas 1922- )
ディモブLeonid Dimov(1926- )
アレクサンドルIoan Alexandru 1941- )
スタネスク Nichita Stanescu 1933-83)
ブランディアナAna Blandiana 1942- )
ソレスクMarin Soressu 1936- )
ディネスクMircea Dinescu 1950- )らが活躍し、
特にディネスクとブランディアナは反体制派の詩人としてチャウシェスク政権打倒に大きな役割を果たした。
日本との関係
第一次大戦後(1917年)日本とルーマニアの国交が正式に樹立されたが、それまでに1919年信夫淳平「東欧の夢」、1916年には、吉野作造が中央公論に「欧州動乱史論」を連載してルーマニア参戦の経緯を詳細に分析している。
第二次大戦後、1944年にソ連の反攻にあい、日独伊同盟から抜けてドイツと戦闘状態に入り、日本との国交も断絶した。
1959年国交が回復し、チャウシェスクの自主外交路線は日本でも評価され、75年にはチャウシェスク大統領の来日もあり、特に両国間の貿易は発展した。
1989年12月革命によって、社会主義体制は崩壊したが、その際のティミショアラとブカレストにおける民衆蜂起はマス・メディアを通して日本の国民にも強い印象を与えた。