薬師川虹一 ケルンへ行く      

京都市とケルン市とは姉妹都市になっておりますが、両市の紹介によって、私どもが自発的に交流を始めております。2004年2月6日から13日まで京都のラビーンから五名(うち三名は関西詩人協会会員)がケルンへ参りまして、ケルン作家協会の方々と詩の朗読をしたり、意見交換をしたりいたしました。
そのときのエッセイと、先方の詩人たちが朗読した作品をこれから日本語に訳してお届けいたします。


  ケルン珍道中(1)

                      薬師川 虹一

 フランクフルト国際空港に到着したときのことである。あんなに沢山乗っていたのに、乗客がほとんど来ていない。此処は荷物受取のベルトが廻っているところなのに。三つ、四つのスーツケースが転がり出てきたと思うと、後が続かない。変だな、と思っていると今度はなんと、ベルトが止まってしまったではないか。あっけに取られた我々五人は狐につままれた顔で呆然と立っているばかり。事態が飲み込めないまま、茫然自失の五人に、なんと、日本語で話しかけてくれたのは空港の係員さんであった。『荷物が出てこないのですか。ルフト・ハンザでしょう?何処へ行かれるのですか』『ケルンへ参ります』『それならお荷物はケルンへ届いていますよ』と言うわけで、一層わけが判らなくなった。関空でスーツケースなどをチェックインするとき、フランクフルトまでの飛行便だから、当然フランクフルトで荷物を受け取って、鉄道に乗り換えるものとばかり思っていたのだが、そう言えば、鉄道の乗車券も、航空券と同じルフト・ハンザの搭乗券だった。不思議に思ったので、旅行会社に確かめたが、『それでいいんです』と言っていたのが思い出される。飛行機から鉄道へ、我々の荷物は乗り継いで、ケルンへ行っているのだそうだ。

 『ホンマかいな』と半信半疑のまま時速三百キロで走っている新幹線に座っていると車掌さんがやってきた。我々の席に来て、乗車券を見ると、『ケルンまでですね。お荷物はケルンの駅で受け取ってください。ご案内します』と言う。ちゃんと連絡がついているのだ。

 ケルンの駅で降りると、その車掌さん(実は飛行機会社の乗務員さん)がやってきて案内してくれた。そこにはルフト・ハンザの事務室があり、荷物が出てくるベルとコンベアもあって、待つ間もなく、我々の荷物がごとごとと出てきた。『おおきに、ダンケシェン』

 これで荷物の件は一件落着だが、困った事には、駅まで迎えに来てくれているケルンの作家協会の方々と会えなくなったことである。(つづく)


ケルン珍道中(2)                 薬師川 虹一

 こうしてケルンの街へ無事到着したのはよいが、事前の打ち合わせでは、ケルン作家協会の方々がフォームまで迎えに来てくださる筈なのだ。ところが荷物の受取のために背の高いミス・ルフトハンザに案内されてさっさとプラットフォームを離れてしまったものだから行き違ってしまったのである。駅の構造が日本とはまったく異なることを忘れていた。改札と言うものが無いのだから人々は自由に出入り(?)出来るのだ。ロンドンの駅も似たようなものである。だらしないと言えばだらしないものであるが、自由と言えば、これほど自由で、人を信じている制度は無い。

 ケルンの詩人たちは案の定プラットフォームで待ってくれていたらしい。僕たちも心配だし、これからどう行けばよいか判らないものだから、必死で駅中を探し廻ることになった。駅といっても今言ったような具合だから、駅と言うか通路と言うか、訳のわからぬ構造だから、探すのも大変だ。彼女たちを知っているのは並河さんと僕だけだから、いきおい僕が走り回ることになる。お祭りに来た人の波が凄い。誰もが仮装しているから、なんとも不思議な世界なのだ。お蔭で駅の地理がよく判った。

 結局見つからないので外へ出て、タクシーでホテルまで行くことにする。貰っている地図では駅のすぐ近くだし、ドイツ人の娘婿も、「お祭りだからタクシーには乗らないほうが好いですよ」と言っていたが、仕方がない。タクシーは3.75ユーロで、ホテルに着いた。鍵を受け取って、部屋へ行き、下へ降りて待っていると、程なくドロレスさんクリスチナさんとがやってきた。互いに駅での騒動を語り合ってから、お互いの姿を見て大笑い。クリスチナはめっきり大人っぽくなっている。お人形のような美人なのは変わらないが、京都へ来たときはまだ二十歳前の可愛さの残る少女だったのに、今は大人の色気をほんのり漂わす娘さんである。互いに紹介しあってから、ドロレスが言う。『衣装を持ってきたわよ』さあ、大変だ。お祭りには誰もが思い思いの扮装で繰り出すことになっていると知らされていた。大きな荷物を覗くと、中には派手なピエロの衣装に小道具類が入っている。『・・・』と思わず顔を見合わせたが、『有難うダンケシェーン』でその場は別れた。

 翌日、予定の時刻に彼女たちがやってきた。ドロレスはご主人を、クリスチナはボーイフレンドをそれぞれ伴ってのお出ましである。それぞれ、ミッキーマウスやハリーポッターの魔法使いの扮装だ。僕たち五人も昨夜、渡された赤と緑のピエロの衣装に男は真っ赤な丸い玉の鼻をつけ、女性は緑の鬘をつけているから、なんとも言えない集団が出来上がった。この姿で外に出るのは少し勇気が要ると思ったのは一瞬のこと。外を歩いているのは異様な連中ばかりだから全く気楽なものだ。(続く)


  ケルン珍道中(3)

                       薬師川 虹一

 ケルン市役所の本館は古い建物である。前は広場になっていて、此処から行列の一隊が出発する。入り口で招待券を見せて中に入ると、舞台のある大広間になっている。その舞台の上に、白いT シャツに何やら赤い文字の書いてある派手な男が大きな声で叫んでいる。聞くとそれがケルン市長のフリッツ・シュラマ氏だとのこと。横では楽隊が賑やかな曲を演奏しているから、大変な騒ぎである。大広間一面に机が並び、白いテーブルクロスが輝いている。私たちは案内されてテーブルに着いたがそこは外交官席という札が置いてある。一歩大広間に入ったときから、一種やけくそな気分になっているから、そんな札などくそ食らえと言う気分で適当に席に着いた。

 ドイツ語がわからない。困ったことだ。国際交流に言葉の壁が厚くのしかかる。幸い、ドイツでは英語が相当流通していると聞くから、何とかなるだろう、と隣の人に「英語でスミマセンが・・・」と話しかけると、素直に英語がかえってきた。共通語としての英語の有難味を感じながら、気をよくしてあちこちの人に遠慮なく話しかけていった。祝賀式典が始まっているのかどうだか判らないまま私はビールのコップを重ねていた。舞台の上の市長さんはドイツ語で(当然のことだが)何やら大声で喋っている。誰も聞いている様子はない。何処を向いてもてんでに勝手なことをしているようだ。これがドイツ流なのだろうか。いやそうではあるまい。これはお祭りの無礼講と言うやつなんだろうと、勝手な解釈をして、こちらも無礼講を決め込む。無礼講だから我々もばらばらに勝手なことをしている。兎に角ビールが旨い。旨いから飲む。飲むと直ぐにお代わりが来る。そんなこんなの中で、ドロレスさんが「呼んでいるよ」と言うから五人揃ってぞろぞろと舞台へ上がる。どうやら順番にいろんな人が紹介されているらしい。私たちも日本代表として恥ずかしからぬ態度で臨まねばならない、と思うが,何しろしこたま飲んでいるのだから楽しいばかりで,威厳も糞もなくなっている。用意してきた挨拶の言葉などとっくに忘れている。それでも習慣というものは恐ろしいもので、何とか市長さんとも挨拶を交わし、京都市長さんのメッセージも渡して一応のことはこなしてしまったつもりである。これで肩の荷が下りたから、又頑張って飲み始めた。飲んでは「ケルン万歳」と叫ぶ。何のことはない、カーニバルの祝賀式典と言うのは、酔っ払いの集まりなのだ。そうと判れば気が楽なものである。普段の通りに振舞って居ればよいわけだ。とっくに脱ぎ捨てていた裃をさらに脱ぎ捨て、相手構わず喋りかけては「ケルン万歳」である。美人が近づいてきた。これはありがたいと思うまもなく首に何やら勲章のようなものを掛けてくれた。各グループの代表者の印らしい。それで又「ケルン万歳」となる。           (続く)


ケルン珍道中(4)

                              薬師川虹一

 何だかよく判らぬうちに、祝賀式典は終わったようだ。判らなかったのは私だけかもしれない。兎に角終わったようなので,人々の流れに乗って外へ出た。市役所の玄関前広場では昔の兵隊さんの服装に身を整えた一隊が整列している。何となくおどけた雰囲気の兵隊さんたちである。お年寄りが多い。それでも鉄砲かついで、サーベルを下げて、いっぱしの兵隊さんである。帽子に大きな白いふさふさの羽飾りをつけた将校さんが号令をかける。胸を張った兵隊さん、へっぴり腰の兵隊さん、笑っている兵隊さん、何とも締りのない隊列が、意気揚々と出発してゆく。彼らもお祭りの行列に加わるわけだ。カーニバルのパレードが始まる。私たちも案内されて市役所から少し離れたところの観覧席に入る。当然ながらそこも賑やかな人々が溢れていた。前の方に人々が集まっているので、後ろは空いている。で、後ろの方へ上がっていって、眺めることにした。大通りの両側に観客が押しかけているから、通りは狭い谷間のようだ。私は崖の上から見物する格好になった。パレードはすでに始まっていて、何でも朝から行列が進んでいるとのことである。向かい側のビルの窓には人の顔が並んでいる。賑やかな楽隊の音楽が辺りに響き渡っている。異様な雰囲気の中で、気分は否が応にも高ぶってくる。

 ドロレスさんのご主人が小さなビールの樽を持ち込んでいる。いつの間に手にしたのか判らないが、手にしたコップにはちゃんとビールが入っている。気分はもう全くお祭りだ。日本人は我々以外辺りに誰もいない。珍しいのか、いろんな人が話しかけてくる。こっちも誰彼なしに話しかけては乾杯して廻るから、祝賀式のときと同じことなのだ。ここでも言葉は全て英語で事足りる。便利な言葉である。それと言うのも、此処は市長の招待席だから、一応それらしい人々が集まっているからなのだろう。太ったおじさんと話していると、彼は開業のお医者さんで、日本人も沢山診察しているとのこと。可愛いお嬢ちゃんを連れている。ひとしきり雑談をして振り返ると、若いのが二人横に立っている。そちらと話が弾んで、仲良くなった。馬鹿話ばかりしていると、お前は面白い奴だ、と言うから、面白いのはこの町だ、と言い返す。面白いはFUNNYで済ましているが、これは『面白い』と言う意味と『変な』と言う意味とがある。今の場合、どっちなのかは判らないが、両方の意味でもある。いろんな意味が同時存在している言葉は便利なのだ。

 こう書いてくると、何だか何時も酔っ払っているように取られるかもしれないが、国際交流というものはこういう状況の中からこそ生まれてくるものだろう。ざっくばらんな馬鹿話の中でこそ、本音が表れてくるものだ。怒鳴るようなお喋りの中で、私は何時もナショナリストになってゆく。物分りの良い国籍不明の日本人では国際交流は出来ないように思うのだ。(続く)



  ケルン珍道中(5)

                                  薬師川虹一

 混乱と交流とが混在する観覧席の前を、パレードが次々と進んでゆく。ただ進んで行くだけではない。雨霰のごとくチョコレートやキャンデーが飛んでくる。祇園祭の粽ではないのだ。結構大きなチョコレートが飛んでくると、思わず首をすくめなければならない。観覧席では袋を広げたり、帽子を翳したり、てんでに工夫を凝らして、沢山の獲物を獲得しようと必死である。気後れしていると、ドロレスさんが、幾つか獲物を分けてくれたので、これはいけないと思い返し、私も積極的に獲物を狙い始めた。しかし中々思うようにはチョコレートを袋に取り込むことが出来ない。その内に何とか、幾つかのキャンデーとチョコレートをゲットすることが出来た。

 目の前を日の丸が進む。おやっと思っていると、『ジャパン、ジャパン』と叫ぶ声。最前列にいた仲間の一人が叫んでいたのだそうだ。後で聞くと、沢山のキャンデーやチョコレートが投げられて来たそうな。ケルンには一万人程の日本人がいるとか、件のお医者さんが言っていたから、日本人の一団もパレードに加わっていたのだろう。

パレードは、丁度徳島の阿波踊りのように、何々連といった、グループごとに山車を中心に参加しているようである。そういうグループが45〜6並ぶそうである。一つのグループを編成するには相当のお金がかかると言う。ばら撒くためのお菓子も自前であれば、山車を作るのも自前なのだ。市役所から補助があるわけでなし、全て町の人々が自前でお祭りを作り上げている。熱気が満ちるのも当然だろう。

 パレードはまだまだ続くと言うが、時差ぼけも手伝って、我々はかなり疲れていた。寒さも増してきた。年齢の点もあるだろう。平均年齢74・5歳の我々なのだ。夕方になってきたので、ドロレスさんが気を利かしてくれた。お祭りの騒ぎを後にして我々はホテルへ戻る。パレードの通る道筋の喧騒とは裏腹に、お祭りを離れた通りは静かだ。三々五々家路に着く人たちが疲れた様子で歩いてゆく。我々も、『薔薇の月曜日』の興奮を胸に、ゆっくりと家路を辿った。

 ホテルまで送って呉れたドロレスさんたちにお礼を言って分かれたが、我々にはまだ仕事がのこっている。夕食を食べねばならない。旅に出ると、これが案外面倒な仕事になる。何処で食べるかが問題だ。お祭りの真っ最中だから何処も満員だろう。N君が見当をつけておいてくれたレストランを覗いてみるが、やはり満員で駄目。こうなると、少し高級なところへ行くか、いっそ、マクドナルドへでも、と言うことしかない。マクドではねえ。と言うわけで、一寸高級らしいホテルへ行くと、閉めかかっているところだったが、何とか入れてくれた。ビールとワインで夕食。関空を飛び立って以来初めてくつろいだ。(続く)


  ケルン珍道中(6)


                                 薬師川虹一

 と言うのは実は訳がある。昨夜、つまり、ケルンに到着した日の夜。I君N君がおなかが減ったと言う。6日は三食食べたと思っていたが、時間的には、翌日の夜中の二時頃になっているのだから、お腹が減るのも当たり前かもしれない。そこで男ばかり三人は夜の街へ出掛けた。到着したばかりで、まだ町の地図も貰っていないのに、夜中にならないうちにとばかり飛び出したのである。

 お祭りの町には、屋台が出ている。うわさどおり、どの店にもソーセージやフランクフルトの大きいのが屋台の屋根からぶら下がっている。レストランのようなところは見当たらない。歩き回って疲れてきたので、仕方なく、マクドナルドに入ってハンバーガーを食べることになった。僕は余り気が進まないのでビールだけにした。ケルンまで来てマクドナルドのハンバーガーとは・・・というわけで、I君は話の種にと、屋台の大きなフランクフルトを買って帰ることにした。

 さて、ホテルへ帰ろうと言うことになって、はっと気が着くと、此処は何処なのかさっぱり判らない。大聖堂の近くなので、塔が見えると何とかなると思うのだが、肝心のその塔が見えない。うろ覚えのまま歩き回るが一向にホテルの近所らしき覚えのある場所へ戻れない。夜は更けてくる、疲労は増す、辺りには人影もなくなってきた。心細くなってきて、異国での迷子状態になったとき、街角にタクシーが一台止まっていた。やれ嬉しやと、運転手さんにホテルへつれてってくれと頼むと、何処だと言う、此処だ、とホテルのカードを見せると、そこの辻を曲がれば直ぐそこだ、と言う。何のことはないホテルの近くまで帰っていたのだ。

 こういう訳で、ケルン到着の最初の夜は、迷子の子羊状態で終わったのであった。だから考えてみれば、我々は6日には落ち着いて夕食を食べていないのだ。お腹が減るのも当たり前なのだ。それをマクドで済ませたものだから、7日の夕食をホテルで食べると、ほっとしたと言うわけである。初めての町では、もう少し注意して行動しなければいけない。危険な町ならどんな目にあっていたか知れたものではないのだ。我々のケルン訪問はかくして初っ端から迷子状態で始まった。これが珍道中の伏線であることをその時の我々はまだ知らなかったのである。

 そんなことのあった後の『薔薇の月曜日』も何とか無事に終わった。風呂に入って背伸びをすると、一日の狂気じみた興奮が次第に薄れて行く。明日は十時に迎えが来る。大聖堂の辺りを案内してくれることになっている。などと思う間もなく深い眠りの世界に引き込まれていった。
       (続く)


  ケルン珍道中(7)    薬師川虹一

 翌日はケルン在住の日本人ガイドさんが案内して大聖堂などを見せてもらうことになっている。てきぱきとしたガイドさんの案内で、博物館や大聖堂を案内してもらったが、正直のところこういう案内は余り興味がない。旅行案内に書いてあること以上のことは聞けないのが普通なのだ。だから別の日に私たちは大聖堂へ行って、勝手に観光して廻った。高い塔にも昇ってきた。内部の螺旋階段は、ピサの斜塔の中と同じで、狭い階段が延々と続いている。元気な少年たちが上から走って降りて来るが、狭いから壁にくっついて止まっている外ない。肩で息をしながら上って行くと、後百段と書いてある。礼拝の時を告げる鐘と大きな歯車とが並ぶのを横目で眺めながら上り続けてようやく広間にたどり着くが、頂上まではそこからまだ更に狭くなった階段を上らねばならない。

 やっと終点までたどり着いて下りる階段を辿って、さっきの広間に来ると、先に下りていた中井君や石内さんが早いですね、と言う。聞くと天辺では四方を見回す回廊があって、そこからケルンの街が見渡せると言う。私は下りることばかり考えてさっさと降りてしまったのだ。で、又やり直して上ってきた。我ながらよくやったと思う。皆、感心するより、あきれていた。

 夕食は昨日入り損ねたレストランへ行くことにした。古さを売り物にしているところだそうな。なるほど古いつくりである。何となく歴史の中に浸りながらソーセージやビールを楽しんでその日は終わった。

 翌日は中井君が調べてきた世界遺産の邸を見に行くことになった。切符の自動販売機はわかりにくい。人のいる窓口へ行って、旅行案内書を出して交渉するが、いまいち隔靴掻痒の感が否めない。結局なんだか判らぬまま、安い切符を呉れたのでそれで乗ることにした。往復で、五人乗って五ユーロかそこらだからなんだか変であるが、知らぬことにして乗り込む。何となくスペルが違うようなのが気にかかるが兎に角言われたところで降りて、駅の外へ出る。さてどうするか、と途方に暮れていると若い女性がやってきた。渡りに船と話しかけるとなんとか英語が通じるようなので、旅行案内を見せたりしながら尋ねると、あそこの駅から62番の電車に乗って、終点まで行き、そこで63番に乗り換えて・・・と言うことらしい。で、その電車に乗って言われたとおりに行くと乗換駅についた。待つ間もなく言われたとおり63番が来たが、どうもおかしい。何がおかしいのかわからないが、勘というやつである。絶対に違うところへ来ている。何とかせねば、と鳩首会合して、たぶんボンが近いからそこまで戻ろう、と言うことになった。辺りはのどかな田園風景である。人の姿も稀な所なのだ。63番の電車が行く果てはどうなっているのか想像がつくような気がする所であった。62番の電車が来たので、始めに乗った駅まで戻ることにした。で、再び鉄道に乗ってボンへ引き返すのである。しばらく走ると、「ライン川が見えた」と中井君が叫ぶ。と間もなくボンの町だろう、と勝手に推測していると、電光掲示板に、次は『ベートーベンの家』という表示が出たのを見て、どうする行ってみるか、と言うと、それ行け。と言うことになって、皆ぞろぞろと降りてしまった。全く予定外の行動であるが、いいじゃないか、と言うわけで、駅員さんの教えるままに歩いてゆくと直ぐにベートーベンの家なるところへ着いた。何がしかの入場料を払って中に入ると、日本人の音楽好きな学生が数人、入っている。陳列してある楽譜や楽器を見て何か喋っているが、トンと知識がないからわからない。大体有名人の家とか言うものは何処も同じようなものなのだ。書斎があって、居間があって、ベッドがあって、人間の住処なのだから誰が住もうがそれ程変わった所であるはずがない。と憎まれ口を呟きながらぶらぶら歩き回って外に出て、またぞろ鉄道に乗って、かねて目的の場所へたどり着いた。何のことはない、ケルンから近い所なんだ。料金が安いはずだ。安い運賃で遠いところまで行き、変なところを見てきたのだから、ベートーベンの家だけ見るよりずっと得をしたような気がする。しかし、辺鄙な田舎駅で、途方に暮れた時は本当にどうなることやらと思ったが、迷子になるのも二度目だし。それに天気もよかったので、愉しい旅となってしまった。

 目指す歴史遺産の邸は駅の直ぐ前にあった。幾何学的植え込みがシンメトリックな模様を描く、典型的な西洋の庭園が拡がっている。内部は奇麗に修復したためか、何とも美しくて面白くもなんともない。悪いが、名前も忘れてしまった。癪だから案内のお兄さんに何かと意地悪質問をするが、余り面白い返事が返ってこないのも気に入らない。迷子になって遠回りをし、道草まで食ったものだから日も暮れてきた。早々にケルンへ戻って飯を食って寝ることにしよう。安い旅をしたのが儲けものだ。ドイツの電車は異国の旅人になんて優しいのだろう。

                               (続く)



  ケルン珍道中(8)   薬師川虹一

 これに懲りて翌日の遠足に備え、私は夕食後駅へ行って翌日の準備をすることにした。一人では心もとないので、石内さんに介添えを頼む。翌日の目的地は、リューデスハイムと言う夏の保養地と案内書には書いてある所である。今朝悪戦苦闘した駅の窓口で、案内書を見せながらいろいろ尋ねてなんとか手応えがあった。料金も払ってしまう方が安心だと思って五人分を払って乗車券を貰った。往復で一人45.7ユーロと言うからまともな値段のようだ。昨日の値段は一体なんだったのだろう。で、

 翌日になった。準備が整っているからとんとん拍子に事は運ぶ。コブレンツまで新幹線、コブレンツで乗り換えて、今度はライン川の北岸を走る。何年前だったか、デイスブルグ大学で学会があったとき、最後のお別れエクスカーションでライン川下りに連れて貰ったことを思い出す。ローレライを通るときは皆で合唱したなあ、などと思い出しながらライン川の流れや山の上の古いお城などを眺めていると、やがてローレライの人形が座っているところへ差し掛かった。船の上からだと、正面に見えたのだが、北岸の鉄道からだと銅像の裏側になる。残念だが仕方がない。

 暫く走ると、やがてリューデスハイムの駅に着いた。プラットフォームのない駅である。地面に飛び降りると駅舎のある反対側に歩くことになる。いかにも外国の駅らしい。夏の保養地だから、二月のリューデスハイムは見事に静まり返っている。人子一人歩いていない。昨日行った最果ての駅の風景が頭をよぎる。『ワイン博物館』があるはずなので歩くと、確かにあったが、休館中、と張り紙が出ている。ワイン畑も閑散としている。雨も降り出した。最悪だ。でも仕方がない行くところまで行こう。『つぐみ横丁』と言うお土産物やビヤホールなどが並ぶ通りがあると言うからそこへ行かねばならない。途中の店は何処もしっかりと戸を閉めて休んでいる。一軒開けている店があったが、なんと日本語で、大安売り、と張り紙をしているではないか。うんざりしてしまう。此処まで日本観光軍団は大挙して押し寄せて居るのだ。『つぐみ横丁』の店店も閉めてはいるが、日本語の張り紙だけが残っているのもやるせない。これでは昼飯も食べられないかも、と思いながら歩いていると、一軒だけレストランが開けていた。やれ嬉しや、と入って見れば、土地の人らしいのが二三人喋りながら食事をしているだけ。でも、メニューを見ると何とシュニッツエルがある。日本人好みのビフカツである。早速それを注文して、お目当てのアイスワインを頼む。何ともいえぬ芳醇な甘さが口いっぱいに広がるではないか。これで此処まで来た甲斐があるというものだ。小止みになってきた雨の中を駅に帰り、ケルンへの電車を待つ。コブレンツで乗り換えてケルンへ戻る道はもう慣れたものである。ローレライの背中を見ながら揺られて、味をしめたアイスワインをケルンの街で探そう。次はコブレンツへ行ってみよう。夢はいくらでも広がるが、時間がない。狂気染みたカーニバルの興奮もおさまり、つかの間の旅行を楽しむ我々五人の日本詩人たちであった。

                             (続く)


 
 
ケルン珍道中(9)           薬師川虹一

 

 遊びほうけた四日間が終わって、いよいよケルンの詩人たちとの交流会である。朝、例によって、我らがマスコット、クリスチーナちゃんが迎えに来てくれた。服装を改めたわれわれが後に続く。さわやかな朝風が心地よい。二月のケルンは寒いぞ、と言う覚悟が消える程度の寒さである。

 少し歩いて『薔薇の月曜日』に行った、市役所の前を通り過ぎると、市電(?)の駅があった。券売機でクリスチーナが切符を買ってくれる。何だかわからないが、大事に持っておれ、と言うので大切に片付けておく。帰りにも使うとのこと。後でわかったのだが、鉄道も市電のようなものも、どうやら同じ会社のものなので、切符も一枚でよいらしい。便利なのか、薩摩の守を決め込んでいるのか、キセルをしているのか良く判らないが、なかなか良い方法である。

 しばらく乗って、訳もわからず言われるままに降りると、近くに日本文化センターがあった。いかにも日本文化を知らせるところらしく、大きな焼き物の壺が並べてある。余り感心するようなものではないが、しかるべき名のある人の作品なのだろう。もう十年以上前になるが、ダブリンへ行ったことがある。

アイルランド作家協会の本部がある建物へ行くと、案内をしてくれている若い詩人が、一寸こっちへ来い、と言うのでなんだろうと付いて行くと、どうだ、禅の庭だ、と威張る。言われてみれば、龍安寺の石庭の真似事のようなものが拵えてある。見ているとこちらが恥ずかしくなるような代物だが、ウン、成る程、よく出来ているね、などとお愛想を言って退散した思い出が微かに蘇る。

日本文化センターというのは、外務省の出先機関だから、お役所の一種なのだ。アイルランドの詩人たちが、石を並べて喜んでいるのとは訳が違う。彼らのものは、お愛嬌と言って済ませられるが、こちらのものは、れっきとした日本政府、つまりは、われわれの祖国日本を代表する場所なのだ。もう少しなんとかならないものだろうか。役人に任せておけばこの程度のことしか出来ないのは当然なのかもしれない。

 などとぶつくさ呟きながら案内されるままに二階へ行くと、ちょっとした会議場のような部屋が待っていた。そこが今日の会場である。ドローレス、クリスチーナ、ガートルードさんたち、お馴染みの方々のほかに、かなり年配の男性が待っていてくれた。人の良さそうな、でも一寸、気難しそうな詩人で、英語はいささか怪しい。

 あらかじめ、詩のほかにいろいろな作品を持ってゆくと伝えてあったので、早速持参の作品を広げることにした。芸達者な人々だから、色紙や、写真、書画、などを広げてそれぞれが説明する。前回京都で開いたときは、ガートルードさんの抽象絵画が数点披露されただけだが、このたびは可なりな数の作品が展示されたので、俄然賑やかな集まりになった。

 ひとしきり、それらを囲んでがやがや話し合ったが、やがて、お決まりの朗読になった。老人の詩はドローレスさんが翻訳したり、クリスチナが補ったりして説明してくれる。毎度感じることなのだが、やはり交流に話し合いは欠かせない。以心伝心を否定はしないが、自慰で終わりたくないのだ。片言でよい、自分の言葉で相手と通じ合うことが絶対に必要なのだ。その点この度のわれわれの一団は、成功したと思っている。それも、あの『薔薇の月曜日』以来連日のように世話をしてくれた彼女たちがあってこそ、片言であれ、うち溶けられて来たことが大いに有り難い。詩を朗読しあうのも大切だが、日常の中で、次第に気心が通い合うことが交流には必要なのだ。

 ケルンには日本通りというのもあると聞いた。地図で確かめると、確かにある。京都にもケルン通りを作らねばならないかもしれないなあ、と思いながら、クリスチーナに引率されてホテルへ帰った。大仕事が終わって、ほっとするが、記者会見がなかったことが何となく物足りない。あればあったで、大変な仕事になっただろうから、私としては助かったと言わねばならないのだが、やはり少し肩透かしを食った感じは残る。たぶんドローレスさんが後日適当な記事を書いておくことになるのだろう。兎に角、今回のケルン訪問の最大の山場は無事乗り越えられた。まずは目出度し、である。

                            (続く)


      ケルン珍道中(10)    薬師川虹一

 一寸緊張していた、市長会見は『薔薇の月曜日』のドサクサの中で終わったし、詩人たちとの交流も何となく終わった。最後にドローレスさんちの朝食会に御呼ばれする仕事が残っている。仕事と言っては失礼だ。自宅に招いてもらうと言うのは最高のもてなしなのだ。

 例によってクリスチーナが迎えに来てくれて、ケルン駅から電車に乗り、しばらく走ったところで降りた駅は、郊外の小さな駅だった。ドローレスさんのご主人とその友人らしい男性が車で迎えてくれている。私は初対面の男性の車に乗ってドローレス邸に向かった。運転をしてくれる男性は、気さくな人で、よく喋ってくれる。英語も堪能だ。この辺りは昔石炭の炭鉱があって、その頃は賑やかだったらしいが、今では、郊外の住宅地になっているとか、この平野は遥か北海の海岸までこのまま続いているのだ、とか、いろいろ話してくれる。見渡す限り何もない平原が広がっているが、なかなかドローレス邸につかない。そういえば、クリスチーナがなにやらケータイで話していたが、どうやら違う駅に着いたらしい。後でわかったのだが、帰りにはごく近い所に駅があった。

ドローレスさんは平均的ドイツ人の家庭の朝食だ、と謙遜しているが、なんの、なんの、ホテルの朝食に負けないご馳走だ。運転してくれた新顔が加わっていたのも楽しい。近くで開業している歯医者さんだそうな。まだ若いと言っても、ソ連が占領していた東ドイツに暮らしていたと言うから、可なりの年のはずである。少し若いだけあって、なかなか話が活発だ。ソ連占領下の生活の厳しさ、をいろいろ語ってくれて、それを題材にした短編小説を書いているそうだ。遠慮していたのか、帰り際になって、その小説の原稿を呉れた。彼とは何となく気が合って、可なり突っ込んだ話もし、お互い良い話し相手が見つかったと喜こんで話し合っていたのたが、このことが翌日ちょっとした災難となって返ってくるとは思っても居なかった。

 それまで、余り詩人たちの仲間に入ってこなかった,ドローレスさんのご主人が、ドイツの亭主族の間で流行っているものを見せてやろう、と言い出した。ドローレスさんも見てやってくれと言う。地下室にあるのだ、と言うので、一同ぞろぞろと彼の後から地下室へ下りてゆく。ドローレス家は家族二人なので、相当広い邸宅である。とても平均的家庭とはいえないだろう、などと思いながら地下室の彼の部屋へ行くと、なんとそこは二十畳以上もある部屋中に鉄道模型のレールが、今は山中、今は浜、今は鉄橋越えるぞと、走り回っているではないか。精巧な機関車や電車、駅舎や人家、羊の群れや子供たち、此処は彼の世界、領土、王国。そして彼は支配者。コントロールのキーボードを前にしたソファーにゆったりと座って、彼は意のままに彼の王国を支配する。彼の指先一本で、電車は走り、止まり、汽笛を鳴らし、正しいホームへ滑り込む。彼はとあるメーカーの技術屋さんだそうだが、勤め人は何処の国でもストレスが多い。この部屋で、彼は完全に自分だけの世界に浸りきることが出来るのだ。子供染みていると笑ってはいけない。それだけ彼は苦しい日常生活を続けているのだろう。平均的ドイツ人の平均的苦悩を垣間見たような気がして、私はぐっと彼が好ましく思えるようになった。ひょっとすると、なかなかやり手らしいドロレス夫人とは良い夫婦のようだが、一寸、息抜きの時も欲しいのではないか、などと余計な勘ぐりをしてみては苦笑をかみ殺していた。

 帰り時間になって一同送ってもらい駅に向かったが、なんと近いところではないか。しかし、降りた駅とは比べ物にならないほど小さな駅である。駅舎もなければ駅員も居ない。野中の一軒家ならぬ、一軒駅である。レールも単線だ。だから来る時には少し遠いが本線の駅に案内したらしい。暖かいドローレス家のもてなしに身も心も温められて、私たちはホテルに戻った。

 昼食後は、各自、お土産などを買うために別れて過ごすことにし、明日の帰国に備えることとなった。

                              (続く)


       ケルン珍道中(11)

 こじんまりとしたホテルだったが、ケルンの富士旅行が手配してくれたホテルは申し分のない良いホテルだった。バスつきの一人部屋で、一泊朝食つき、78.5ユーロだから納得できるところである。贅沢なトイレッタリーは付いていないが必要最低限度のものは揃っている。一週間滞在すれば、何となく我が家の感じがするから、これで十分だ。

 帰国の日が明けた。お会いした方々全員が送りに来てくれている。散々歩き回って、今では京都並に知り尽くした感のある道を辿って駅に向かった。大聖堂の高い塔が別れを告げてくれている。あの狂乱の『薔薇の月曜日』には紙くずや空き缶が散らばっていた道も、今は奇麗に掃き清められて何時もの朝を迎えている。カーニバルと言う異次元空間が消えたケルンは、古都の雰囲気を漂よはせて澄まし顔である。

 それでも駅はやはり賑やかだ。通いなれた駅のコンビニも何時もどおり人々が出入りしている。人込みを少し離れたところに私たちはかたまり、しばらく話し合って、別れを惜しんでいた。私は例の歯医者さんと話しこんでいた。ソ連占領時代の密告社会のことは話では知っているが、実際にそこで暮らしてきた人の体験談は迫力がある。彼は父親とともに脱北ならぬ脱東をして来たのだった。私は戦後の京都の生活のことなどを話し、体制こそ違え占領下であると言う点では何か通じ合うものを感じながら話に夢中になっていた。周りは親しい人ばかりである。いつの間にか私は外国に居ることを忘れていたのかもしれない。今まで三十年以上の間、外国を廻ったことは数知れない。一度も失敗をしたことはなかったし、失敗をするほど不注意な状態になったこともない。その私が事もあろうに最後の最後になって、何とも恥ずかしい失敗をやらかしてしまったのである。

 何時も担いでいた赤いリュックを人目に付かないようにと思ったのだろうが、柱の陰に隠すように置いて、話に熱中していたのだ。嗚呼、後悔先に立たず、飼い犬に手を噛まれたほうがましだ、である。出発の時になって、柱の蔭には私のリュックの影もなかった。見事であるとしか言いようもない。周りには私たちの仲間が居たのだ。その目を掠めて見事に私のリュックは無くなっていた。一瞬私の頭は真っ白になっていたが、それと同時に、この災難を尤もだ、と肯定する気持ちもあった。完全に私の不注意だった。旅行者の心得を忘れていたのだ。自己責任。何という冷徹な言葉だろう。

 全てを記録したテープレコーダー、キャノン・イオス7も、二本の交換レンズも、小さなデジカメも、十本近いフィルムも、つまり私の宝物が全部、一瞬にして消えてしまったのだ。一週間の楽しい出来事は、僅かに私のこの灰色の脳細胞が覚えている分量だけになってしまった。僅かに残ったのは、心覚えのメモ帳だけである。

置き引き犯人の見事な手際に感心するばかりの私は、警察に届ける時間もなく、そのまま身軽になって、新幹線に乗り込んだ。どんなに楽しい時間でも、我を忘れてのめり込んではいけない。ケルン訪問は、こうして最悪の結末をもって終わった。仲間に事故がなかったことだけが救いである。

 過ぎたことをくよくよしない私の能天気な性格がこういうときには我ながら有り難かった。退職金をつぎ込んで買い求めたカメラやレンズの代わりを探さねばならない。年金のみを頼りに生活する身に新品を買う余裕はない。中古のカメラとレンズを求めてカメラ店を彷徨いながら、時には後悔の臍を噛み締める毎日であった。

ケルン珍道中はかくしてケルンの駅の椿事で幕を閉じた。おのおの方、油断大敵でござるぞ。ゆめゆめ油断めさるなよ。

                               (終わり)

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