第九回ICWELに参加して〔一〕

                 薬師川 虹一

 隔年に開かれるICWEL〔ヨーロッパ言語による国際作家会議〕が今年もマラガで開催された。

 前回とは見違えるばかりに整った会議になっていることがスケジュール表からもうかがえた。マリエッタ・シレロールさんの工夫と努力の跡が歴然とする会議であった。

 前回から、マリエッタさんの主導で共通テーマと言う大枠の中での発表が求められているのだが、前回は各国における文学の始まりという漠然としたものなので、発表者たちも戸惑いを隠せず、まとまりの無い会議となったが、今回は一歩進んで、作家の始まり、という枠が定められていた。作家と言うとやや漠然とするので私は「詩人の始まり」と解釈して発表に臨んだ。そこではたと行き詰ったのは、一体詩人とは何だろう、と言う、詩人の定義であった。例えば五歳の童子が素晴らしい詩を書いたとする、彼は詩人と言えるだろうか。定年退職した人が、カルチャー教室で、素晴らしい詩を一篇書いた。彼を詩人と呼んでよいのだろうか。日曜大工を大工と呼んでよいのだろうか、と言うのと同じ疑問である。T.S.エリオットは三十を越してまだ詩を書いている人を詩人だと言ったが『詩人』と言う呼び名で呼ばれるには何かある基準があるのではないだろうか。こんなことを考えると、『万葉集』の詩人たちを無条件に詩人と呼んでしまうことに私は非常な違和感を覚えたのである。王様が哲学者であることが望ましいとギリシャの故人が言うのと同じで、天皇が詩人であることは望ましいことであるに違いない。これは優れて個人のアイデンテにかかわる問題だろう。

例えば、『万葉集』巻の一の二〔大和にはむらやまあれど とりよろふ 天の香具山登り立ち 国見をすれば 云々〕は人口に膾炙した歌であり、確かに優れた歌だと言える。あるいは額田王の歌が優れていることは誰しも認めるところであろう。だからと言って優れた詩を物した天皇や額田王が即詩人だと言えるのだろうか。天皇はあくまでも基本的に天皇であり、額田王は何某天皇の恋人であったかどうかは知らないが、宮廷の姫君であり、少なくとも、宮廷人として認められた存在であったろう。ことは作品が優れているかどうかの問題に限られないのではないだろうか。ともすればこれまでの日本の国文学者たちは、作品だけに目を向けて、作者の背景、その社会の構造などに目を余り向けていなかったのではないだろうか、と言う素人判断が私の頭を混乱させたことは間違いない。

私の専攻していたイギリスロマン派詩人の研究の際、当時巷に氾濫していたブロードサイドに詩を書きまくっている無名の瓦版詩人たちと、文学史に名を残しているロマン派詩人たちとの違いを如何に解釈すべきかに悩んだ結果、前者を”street poet” と呼び、後者を”recognized or established poet” と呼んで区別することにした。これを応用して、万葉集の詩人たちを見直してみると、『宮廷詩人』と言う大枠の中で、果たして何人の人たちを『確立された詩人』と呼べるのかという疑問が湧いてきた。説明は省くが、結局私は、人麻呂と赤人とを日本における最初の「詩人」として取り上げたのであるが、こうなると問題は単に各国における詩人の誕生と言うような歴史的な問題から、詩人とは何か、と言う一般的な問題に変化せざるをえない。正直のところ、私のこの問題提起は残念ながら余り期待した反応を生まなかった。

だが今回の国際会議では今まで聞かされたこともない様々な問題の存在を知らされ、微妙な文化の衝突さえも感じさせられた、とても有意義な会議であった。どうやら共通テーマは歴史的な経過を辿っているように見受けられるから、次回はおそらく各国におけるルネサンス事情と言うようなものになるのではなかろうか。次第に面白くなることは請け合いであるので、関西詩人協会からも奮って発表者が出ることを望みたい。日本人の考え方や感性を直接外国の人々に語りかけることにモット力を注ぐべきだろう。会話や対話を通じてこそ、理解しあえる。自分の言葉と振る舞いで、本音を語ることが求められているのだ。一週間の共同生活は貴重な体験を与えてくれる。詩は音楽ではなく言葉の芸術であり、言葉には意味が付きまとっているのだから言葉の音楽にだけ寄りかかっているのでは片手落ちになるのではなかろうか。私は今迄からいろいろな所で、お前は本当に日本人か、と笑われてきた。日本人に対する何か固定観念のようなものが世界にはあるようなのだ。はっきりと本音を語らない人間と言うことらしい。その点私は変人なのかもしれない。変人が流行る時代になってきたからよいではないか。〔続く〕


  第九回ICWELに参加して〔二〕

                               薬師川 虹一


 九月一日木曜日は良く晴れた日だった。海岸のホテルから、マラガの町中を通り抜けて、山の手の旧神学校「セミナリオ」の一部が解放されたセミナーハウスまでタクシーで10ユーロと少しの距離である。正午から始まる受付の時刻にはかなりの人々が集まってきた。旧友の姿も見え始めるようになると、抱き合って、頬を合わせた挨拶になる。2003年の会議のとき、お土産にリヤルドの人形を買いたいという私を、会議の合間を縫って大急ぎで下町へ連れて行ってくれたリカルドも現れた。『あの時は走ったね』と、彼。『ウン、本当に有難う』と、私。でもあのときの旧友は余り多く姿を見せなかった。代わりにアルゼンチンからの参加者が多いようだった。

 二時から昼食、いよいよここで一週間文字通り一つ屋根の下で寝食をともにしながら語り合うことになる。毎食マラガワイン飲み放題の一週間だ。アルゼンチンの人たちは陽気な人々だ。女性はスペインの人も、アルゼンチンの人も、余り背丈が高くなく、どちらかと言えば、日本のおばさんタイプの人たちだから馴染みやすい。日本からはロマン派学会で顔見知りの女の先生と、全く知らない東京の先生とが来ていた。いずれも英語英文学の先生だから詩人とは関係が無いといえばそれまでだが、兎に角日本から参加者が増えたと言うことは、私としても顔が良くなったと言うわけだ。東京の先生は、男性一人と女性一人を連れているから、日本人は兎に角五人になった。ところが、残念ながら私以外の四人は、何時も固まっていて、他のテーブルの人々と交じり合わないから、いささか浮いてしまっているのが残念だった。私一人が誰彼構わずばか話をしてはしゃぎまわっているのが日本人としてはしたない様にも思えたが、マラガワインの所為にして構わず喋りまわっていた。だから『お前は変な日本人だなあ』と言われる羽目になるのだが、国際会議にナショナリズムを持ち込んではいけない。心を開かねば国際会議の意味はないと思うのだ。

 朝食にはワインが出なくてコーヒーだけだが、昼と夜にはマラガワインと普通のスペインワインとが飲み放題になる。いきおい座は陽気になり、歌が出るし、話は弾む。べサメムーチョは私も一緒に歌えると、一座は驚いてますます悦んでくれる。そのほかメロデイだけは良く知っているが文句はさっぱり知らない歌が沢山ある。私は机を叩いたり、ナイフでお皿を叩いたり、リズムに乗って参加する。

 昼食のあと3時間ばかり休憩になる。シエスタと言う訳でもなかろうが、ありがたい制度であるから、その間にひと眠りする。スケジュールは、大抵、午前のセッションで発表があると、シエスタの後にちょっとしたエクスカーションが組まれる。午前中にエクスカーションがあれば、シエスタの後のセッションが発表会となる。

 初日は集まった人々の交歓に当てられているから九時の夕食の後は何も無く、私はすぐさま部屋に帰ってシャワーを浴びて寝てしまった。 〔続く〕

 

  第九回ICWEL に参加して〔三〕

                              薬師川 虹一

 九月二日。いよいよ本格的な会議の始まりである。オープニングにはスペインらしく、フラメンコギターと男性独唱で始まった。ギタリストの名前は忘れたが、なんでも有名な人らしい。私はマイスターと呼ぶことにした。歌うのは愉快なマニュエルである。彼は片言の英語を話す。彼も世間で知られたシンガー、ダンサーだそうだ。こ一時間ギターとテノールのコンサートがあって、ヂュモン会長が老齢のためマリエッテさんが会長挨拶を代読する。言葉が如何に文化の発達に必要であったかと言う話だから当たり前の話といってしまえば実も蓋もない。ヨーロッパで話されている言語が殆どすべてゾロアスト教徒()の言葉、ペルシャ語に起源を持つと言う。確かに私たちもヨーロッパの言語は、印欧語族に属すると言うことは習ってきたが、ゾロアスト教徒が出てくるとは思わなかった。ゾロアストリアンがペルシャ人のこととなればもっともだと納得できるし、ペルセポリスの遺跡にはゾロアスタ教のシンボルが沢山残っていたことを思えば、なるほどと思える。オーデンがルーン文字を発明したと言う話も出てくるから、かなり高等な知識を要する内容になってきた。開会の講義にしては凄い話であったが、どれだけの人々が理解したかはわからない。


 二番目の発表者はアルゼンチンの女性詩人である。リナという彼女は、食事の後何時もそっと後片付けをしている女性なのだ。きっとよい家庭の奥さんなのだろう。その彼女の発表は『ギルガメッシュ』である。叙事詩の歴史を学んだ人なら誰でも知っているものなのだが、細分化された今日の学会で、これが取り上げられるのは限られた場所でしかないのではないだろうか。それがいとも簡単に取り上げられるところが、学会と言う型にはまった会議ではなく、詩人の集まりだからであろう。数年前、ギルガメッシュ王の墳墓がイラクでドイツの考古学者たちによって発掘されたと
BBCが報じた。確かに彼女の言うようにギルガメッシュ叙事詩はキリスト生誕前3100年の昔に成立していたとすればそれはギリシャの叙事詩より遥かに古く、世界文学の誕生の姿を伝えるものと言えるだろう。其れにしては余りにも知る人が少ないのはどうしたことだろう、と言うのが彼女の言いたいことなのではなかろうか。基督教のバイブルにはギルガメッシュ叙事詩の影響と見られるものが少なくない、よく指摘されるのはノアの箱舟の物語である。にもかかわらず、ともすれば忘れ去られがちなのは、其れが余りにも古いものであるだけでなく、そこにはイスラム文化圏に対するキリスト教文化圏の排他性が感じられる、とは彼女は言わないが、私にはそのように聞こえた。『全てはこの古代バビロンの叙事詩に書き込まれている』と言われている通り、古今東西を通じて人間が抱えている全ての問題が、この紀元前4000年の叙事詩にすでに述べられているとすれば、ギルガメッシュ叙事詩は時代を超えて生き続けていると言わねばならない。愛すべき女性詩人リナさんの話は私にとってまさに頂門の一針と言えるものであった。

 二時に昼食。シエスタ(?)があって、5時からエクスカーション。マラガの昼は長い。8時を過ぎてもまだ明るい。九月とはいえ、賑やかな海岸の保養地、ベナルマデーナまでコーチで移動して、おもちゃのようなビル・ビル宮殿の広間で朗読会が開かれた。私もそのために持参した写真を見せながら、詩の朗読をした。先にも書いたが、石仏の詩は余り世界的な注目を引かなかったのに対し、とても気が合って、親しくなったトルコの詩人学者アルマンが朗読を終えて席に戻った私に紙切れをそっと渡してくれた。そこには四行ばかりの詩が英語で書かれてあった。其れは、石仏に向かって、「その岩の中に閉じこもっていた長い年月 あなたは何を考えていたのでしょうか」と言う私の詩に対する返歌として、

    The stone Buddha

     Must be in Nirvana

     Because a brain of marble

     Is absolutely free of thinking.   

と書かれていた。私たちは顔を見合わせてにやりと笑みを交わした。そういうすばやい機知を持ったアルマンだった。その後何かにつけて、「石頭は何も考えないからな」と言うのが二人の合言葉になった。彼は今度の国際会議で私が最も注目した詩人の一人なのだが、その意味は次の機会に話そう。 (続く)

 

     第九回ICWEL に参加して〔四〕                

 三日目はエクスカーションから始まった。チュリアと言うマラガ郊外の古い町へ行く。古い町だから、道は曲がりくねったり、坂の階段が続いたり、白い壁の民家の立ち並ぶ静かな町だった。ここは、歌手であり、フラメンコのダンサーであり、又ギター奏者でもある愉快なマヌエル・ガリドの生まれた町でもある。そんなわけで、旅人など訪れることも無いチュリアを訪れることになったらしい。彼の働きで、チュリアにあるマラガの放送局でのインタービュウが組まれていた。

 チュリアの町役場は小さな建物で、その前は広場になっているから、老人たちがベンチにたむろ、と言えば大袈裟だが、三々五々のんびりと時を過ごしている。まるで時の流れが止まったような町である。その町役場は又市場も兼ねているらしく、町のおばさんたちが次々と入って行っては、ビニール袋に一杯何かを買って戻ってくる。面白そうなので、入ってみると、びっくりした。生臭い魚の匂いがわっと押し寄せてくる。その横には野菜がうずたかく積まれている。なんだかわからぬ瓶詰めらしいものが並んでいる。とても市場とはいえないような雑然とした食料品売り場だった。

12時からラジオ局へ行くことになっているというので、しばらく広場で時間をつぶすことになった。皆でコーヒーやビールなどを注文して、ベンチで喋っていると、やがてマニュエルが出発だ、と声を掛けるので、ぞろぞろと後についてゆくと、町の表通りから横丁に曲がったところから、古い長屋の二階へ細い階段を上がってゆくではないか。ラジオ局へ行くのじゃないのかな、と不思議に思いながら後について上がってゆくと、何とそこがラジオ局の放送室なのであった。六畳くらいの部屋が放送室で、ガラス越しにあるのが機械室になっていて、その二部屋でことは足りるらしい。確かに最低限度のことは出来るようだ。アナウンサーが一人に機械担当の人が一人、それだけの放送局らしい。それでもチュリアナを中心にマラガの町一円をエリアにしているとのこと。立派な放送局である。その放送室へとりあえず六人が入ることになった。それ以上は入れない。トルコの詩人学者アルマンとアルゼンチンの女性詩人二人、スペインの詩人が二人、日本の詩人が一人(勿論私のことである)それにマニュエルにアナウンサーが入るから部屋は満員のすし詰め状態である。

アナウンサーは英語が出来ない。マリエッテさんが通訳をしてくれる。一人ずつ喋ってくるから私も英語で何か喋るのだと思っていると、マリエッテがコイチは日本語で詩を読んでくれ、とアナウンサーが言っているとのこと。いいのかな、と思いながらも得意になって、日本語で石仏の詩を読んでやった。判ろうと判るまいとお構いなしだ。旅の恥ならぬ旅の朗読は喋り捨てだ。兎に角マラガの空に日本語の詩の朗読が電波に乗って流れるのだ。何人が聞いているのか知らないが、おそらくなんのこっちゃ、ときょとんとしている人があちこちにいることは確かなのだ。訳も無く愉快になってきた。

午後五時から発表のセッション。マリエッテがタイタス・ルクレチウスのことを喋った。これも今年の特徴の一つかもしれない。彼は紀元前1世紀のローマの詩人である。迷信と無知の支配した時代にあって、彼は自然がアトムから成り立っていると唱え、魂すら例外ではないと言う。つまり唯物論者であったわけだ。自然科学の力で全ての謎は解き明かされる、と彼は唱えた。つまり紀元前1世紀のコペルニクスなのだ。時代の主流に反逆した詩人なのだ。詩人は常に時代の先を見ている、と彼女は言いたいのだろう。あるいは詩人は常に時代の対極にいる、といっても良い。全てが一次元的に平坦化されてゆくとき、あえて二次元の世界、二項対立の構図を求めるのは詩人以外にいないだろう。いるとすればそれは奇人変人扱いされるか、過激なテロ犯罪者になるのが落ちである。その意味で、詩人は常に社会的責任を負っていると言わねばならないのではないか。このことが後に私の発表にも繋がってくるのであった。今日ルクレチウスを取り上げる学者は聞いたことが無い。詩人集会の面目躍如たるものがある。兎に角この日のセッションも私には刺激的な時間となった。

              第九回ICWEL に参加して〔五〕 

 九月一日から始まったICWEL四日目になった。この日もエクスカーションから始まった。最初に訪れたのはマラガのお城である。ここは前回も連れてもらったので、今回は割りにゆとりを持って見ることが出来た。イスラム文化の影響が歴然とした装飾がやはり印象的である。地中海沿岸のこの辺りは嘗てイスラムが占領していたところであり、ローマカトリックとイスラムとの宗教の衝突と文化の衝突が起こったところなのだ。このことも今回の国際会議には大きな影を落としているように思えるのである。スイス生まれのスペイン人であるマリエッテには純粋にヨーロッパ的なものが流れているようだが、純粋にスペイン生まれのスペイン人には、何処かしら、キリスト教徒的でないものが感じられるのである。それはアルゼンチンの詩人たちにも感じるものであった。それが何なのか、私には説明できない。

 お城の見学の次に私たちはピカソの博物館へ向かった。ピカソはマラガの目玉商品である、と言うと叱られるかもしれないが、マラガ抜きにはピカソを語ることは出来ないだろう。記念にピカソのTシャツを買った。典型的な観光客である。                             

午後五時から発表のセッションになる。ここでもきわめて刺激的なときを過ごすことが出来た。兎に角今年のICWELは素晴らしかった。詩人たちの詩に対する想いが、発表を通じてひしひしと伝わってくるのだ。

ここで私は始めて耳にする言葉を聞いた。わからないまま日本に帰って、辞書を見たが研究社の英和大辞典にも乗っていない。コロンビア・エンサイクロペヂアにも見えない、やっとウエブスターの大辞典にその文字があった。ご存知の方も居られるかもしれないが、私は恥ずかしながら知らない言葉だった。それは”Aljamia language” と言う言葉である。「ヘブライまたはアラビア文字で書かれたスペイン語」のことだそうだ。アルフレッド・レイヴァという青年が発表者なのだが、彼は美しい奥さんを連れていて、いつも皆とはなれたところにいた。何となく皆と違う風が彼らの身体の周りには吹いているような気配だった。アルハミーアと言う言葉はわからなかったが、話の内容は大体わかった。つまりスペインの中にありながらアルハミーア語の文学が不当に忘れられていることへの反発、と言うほど強い調子のものではないのだが、皆に訴えたいということなのだろうと思った。誰も質問者が居なかったので、私が、日本にも同じような問題が存在する。それは先住民族の文学だ。彼らには彼らの叙事詩があり、歴史があり、生活様式がある。アルハミーア語の文学が先住民族の文学と同じとはいえないが、文字が文化の表象だとすれば、明らかにそれは今のスペイン文学とは異質なものと言わねばならないだろう。そのことは理解できるが、だからと言って、どうしたいのか。スペイン文化の中に同化させたいのか。と尋ねてみた。「同化するとはどういう意味だ」とフロアーからアルマンが私に突っ込んでくる。「つまり、存在を認め、理解し、尊重することだ」と私が答える。発表者のアルフレッドはそっちのけでアルマンと私の問答が続いて終わったのだが、驚いたのは、セッションが終わってからのことである。アルマンが近づいてきて、「コイチ、君の言っていたのはアイヌのユーカラのことだろう」と言うではないか。なんて奴なんだ、アルマンていうやつは。彼はイスタンブール大学のスペイン語学科の教授とのことだが、兎に角博識な男なのだ。だから彼が、ジャン・バチスタ・ヴィコの名前を知らなかったとき私は思わず心の中で、快哉を叫んだ。

この日の最後の発表者は前回のとき、私がお土産を買いたいと言ったとき、セッションの合間に急いで下町まで走って私を連れてくれた男である。リカルドウという彼は上品な男で、余り冗談も言わないから、私たちの仲間には余り入ってこなかった。

彼が取り上げたのは「ロッテルダムのエラスムス」だ。これは今回私が一番期待していた発表だから熱心に聴いた。が、期待は残念ながら外れたといわねばならない。それも尤もなのだ。ここは学会ではない。いわば素人の研究会なのだ。ということは判っていながら、私は質問してしまった。「エラスムスはなぜ、こういう時期に『痴愚神礼賛』のような本を書いたのだろう? セルバンテスの『ドン・キホーテ』は言うまでも無く、モアの『ユートピア』ラブレイの『ガルガンチュア』ヴィコの『新科学』、どうしてルネサンスにこういう書物が次々と書かれたのだろう?」

勿論私は、ルネサンスの文明開化時期の理性や科学信仰の時代に対する対極として、云々というようなごく常識的な答えを予期しながら、前のアルハミーア語の文学の存在意義や、マリエッテの取り上げたルクレチウスの今日的意味を想定していたのであるが、リカルドウは見事に私をはぐらかしてしまった。『私はエラスムスではないから、判らないね』と。だが私は満足だった。

今回の統一テーマ「詩人の始まり」には合わないが、近代詩人の始まり、と言い換えれば、見事に今年の会議は成功している。明日はドン・キホーテ論が二本出る筈だ。これで『ガルガンチュア』が出れば完璧だ、と独り言を呟きながらこの日は終わった。

 



 
           第九回ICWEL に参加して〔六〕

 五日目にもなるといささか疲れてきたが、10時からのセッションの冒頭発表が当たっているからそうも言っていられない。白いシャツを着てネクタイを締め、チャコールグレイのスーツを着ると現役時代に返ったような気分になる。アルマンも今日は発表なので、スーツを着て現れた。互いに見交わして、照れくさい笑いを浮かべながら「お早う」と挨拶する。

 日本人の発表者は当然ながら『万葉集』を取り上げてきているので、私は急遽最初の章を取りやめて、私の詩人論に換えることにした。マリエッテさんにお願いしてパラグラフごとに概略の通訳をしてもらうことにして始めた。予定外のことだったから思いのほか、時間が掛かって、次の発表者に迷惑を掛けることになるので、最後の章は取りやめる、というと、マリエッテさんが、「どうして止める、続けなさいよ」と言ってくれるので、詩人の責務に付いての私見を早口で喋り終えた。後になって気づいたのだが、私の意見が、彼女がルクレテウスを取り上げた意味と重なることを彼女は知っていて、私に最後まで喋らせてっくれたのではないだろうか。

 アルマンの発表は「トルコにおけるドン・キホーテ」と言う表題どおり、トルコではドン・キホーテは子供の読み物としての理解に留まっているのが現実だが、彼はドン・キホーテの物語にスペインとトルコとの類似を見、地中海の東西に位置する両国の関係を見ようとする。きわめて野心的な発表と思えたのであるが、どうも様子が変なのだ。彼の発表が終わると、俄かに雰囲気が変わってきたのがわかる。なぜだかわから無いが、明らかに異変が起こっているようなのだ。アルマンは憤然としている。事態の飲み込めない私は彼の窮地を見過ごすしかなかった。今、プロシーデングズを読み直してみても、特に問題になるところは見当たらないようなのだが、明らかに微妙な問題が起こっているようなのである。そしてその日の午後のエクスカーションにアルマンの姿は無かった。それは、アルハミーア語の文学を語ったアルフレドウの場合になぜか似通っているような雰囲気だった。即断することはいけない。だが私にはやはり宗教的なもの民族的なものが絡んでいるとしか思えなかった。04年3月11日の鉄道における同時爆破テロがバスク独立派のテロなのか、ビンラデインに繋がるテロなのかはわからないが、おそらくアラブ過激派によるイラク戦争に対する報復テロであろうとの予測が強い。アメリカで9・11テロの余波が続くように、スペインでの3・11テロの余波が今も続いていることは容易に推測できる。

アルマンのいうようにトルコは東西の架け橋となる資格を十分に備えている。だがそれだけではないのだと言うことを悟らないわけには行かなかった。戦争も平和も、ともにそれぞれの国民、民族が苛酷な代償と引き換えに獲得するものであって、言葉の上の問題ではないのだと言うことを私たちは忘れているのではないだろうか。憲法第九条も結構だ。だがそこには民族の血と存亡とを賭けた思いが果たして込められているのだろうか。私たちの唱える平和は果たして彼らの求めている平和と同じものなのだろうか。国際作家会議は確かに「国際」の名に値する会議なのだと言うことを私は痛感した。

 変な雰囲気を抱えたまま午後の休みの後私たちはアンダルシア地方の典型的な白い街、ミーハスへ案内されていった。参加者が幾分減ったためか、中型のコーチによるこ一時間の旅だった。ミーハスは地中海の太陽海岸を見下ろす丘の斜面に建っているこじんまりとした美しい町である。観光の名所でもあるから美しいホテルもある。

 折りしも、明日からミーハスの祭りが始まるとあって、町中はその準備に慌しそうであった。移動遊園地が組み立てられている。露店の列が並び始めている。通りには横断幕や,電気の飾りが張り巡らされている。おそらく明日になれば人込みで大変なことになるのだろう。岩窟のマリアを祭る岩窟がそれらしく作られてあるのもいかにも観光地らしい。町役場の人が私たちにMijas と書いた緑のリボンが付いている麦藁帽子をくれた。太陽が照りつけるところでは有り難い贈り物である。私はおみやげ物を買うために暫く皆からはなれて店を見て廻っているうちに一行からはぐれてしまった。言葉の通じないところでの迷子ほど情けないことは無い。役場の案内の女性は英語が流暢である。どうやら私たちの仲間は暫くすればここへ戻ってくるらしい。気を落ち着けて私はそこで待つことにした。程なくガイドさんが戻ってきたのであとについてゆくと少しはなれたところに仲間がたむろしていたので、ほっとしたのだが、表面ではそ知らぬ顔で、やあ、やあ、とか何とか言いながら皆に合流して事なきを得た。七時を過ぎても地中海の太陽は燦々と輝いている。ミーハスの町を降り、高速道路に乗ってマラガへ走るうちに八時を過ぎるとあっという間に夜になる。リカルドウは家の近くだと言うので途中で降りていった。

 九時。夕食になり、疲れたのか余りお喋りが弾まなかった。   


                         第九回ICWEL に参加して〔七〕    

 いよいよ最後の日になった。疲れが体中に充満してくるのを感じる。午前中は植物園と聖女ヴィクトリアの霊場とマラガのカテドラルの見学である。カテドラルと言うのは元大司教の居所であったとのことで、いわゆる大聖堂とは構造が少し異なっていた。大聖堂とすれば二月に訪れたケルンの大聖堂のほうが遥かに立派だった。四月のお祭りに担いで廻るお神輿が鎮座していたのでびっくりした。

 聖女ヴィクトリアの霊場というのは何処だろうと思っていると、何のことはない,二年前の会議で四月に来たとき,お祭りの行列が出るので見物に行ったお寺だった。あの時は中へ入れなかったが、今度は特別に奥の院まで入れてもらえた。協会の並んでいる一般座席から、祭壇の方を見ると、祭壇の上に奥まった部屋のように見えるところにマリア様の像が祭られている。そのマリア様の直ぐ前まで入れてもらえたのだから凄い。見下ろすと一般信徒たちが並んで座る席が遥かな足元に広がっている。こんなところまで入ってよいのかな、と思えるような本当は厳かな場所なのだろう。

 最後のエクスカーションは軽く終わってセミナリオに引き上げた。2時に昼食の後五時から最後のセッションである。連日のマラガワインとエクスカーションの疲れのためか、不覚にも居眠ってしまったところをアルマンがちゃっかりとカメラに収めていた。何処までも癪な奴である。

 こうして第九回ICWELも無事終わることになった。明日は早くタクシーを呼んで出発しなければならないので、夕食時にはテーブルを廻りその度にマラガワインで乾杯しながら、再会を約して別れの挨拶をする。マリエッテさんが朝の四時では如何だ、もう一人出発する人がいるから。と言うが、朝の三十分、一時間は貴重だ。頼んで五時にしてもらった。エール・フランス1031便は七時の出発である。五時半に空港に着けば大丈夫だろう。

早朝の高速道路は空いているからタクシーもすいすい走る。二十分で空港に着いてしまった。早朝でも空港はやはり人が込んでいる。私の飛行機より速い出発の便もあるのだから当然だろうと思ってぶらぶら歩いていると、『コイチ!』と叫ぶ声に振り向くとアルマンが並んでいる。もう一人早く出発する人、と言うのはアルマンのことだった。それならそうと言ってくれれば一緒に出掛けたのに、と思ったが、マリエッテさんも疲れていることに気を利かせてくれたのだろう。彼の搭乗は始まっている。握手して再会を約しながら一週間の友情に感謝して分かれた。

私はパリのドゴール空港で約四時間の待ち時間があるのだ。広い空港だから店をみて廻っているうちに時間もたつことだろう。専門の国際学会には何度と無く出席してきたが、詩人たちの国際会議は又一味違うスリルがある。特に今回はえ難い経験をしたような気がする。満足感を胸に、日本への最後の長旅に向かった。 

                              (終わり)

このエッセイは、京都の詩誌「RAVINE 号」に掲載されます。

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