第10回ヨーロッパ諸言語による国際作家会議に参加して


                                                                薬師川 虹一 
 

 第十回国際作家会議は2007年9月2日から9日にかけて開催された。発表された内容は多岐に渡るが、大体のテーマの範囲が中世期の文学ということに定められていたので、何時ものようにスペイン語のわからない私は、予め用意されている英・西両語に訳されて、見事に製本された発表原稿を読むことが出来た。国際会議の成否は言葉の壁を如何に乗り越えるかに係っていることは周知の通りだが、この壁は、一切を計画し、運営し、進行していったマリエッテさんの信じられないくらいの努力によってある程度乗り越えられていると思う。事実、この二国語による論文集が無ければ、私たちはほとんど出席の意味がないと言っても過言で無いだろう。


 ヨーロッパ語による作家国際会議とは言っても、スペイン語圏からの参加者が全てと言える会議である。前回のように、スペイン語も英語も堪能なアルマンの様な人が居れば話は別なのだが、必ずしも全ての人が英・西両国後に堪能と言うわけではない。ほんの挨拶程度のことが話せるだけだから、聞きたいことの十分の一も聞けないし、話せない。あちこちで行われているらしい詩人の国際会議がどんなものなのか、一度体験してみたいと思っている。スペイン語の出来ないことの悔しさを毎回痛感しながら、もうこの年齢ではとても新しい言葉を使えるようになる自信はないので、マリエッテさんの英訳をひたすら頼りにする有様は今回も変わらなかった。


 今回はスペイン語の歴史と言うか、スペインそのものの歴史が可也多く語られたように思う。それに比べてわが日本の歴史の短さを痛感するのは今に始まったことではない。中国へ行っても、イラン・ペルシャへ行っても、アイルランドへ行っても、それは同じであった。木造建築物では世界一と威張ってもその歴史は他国のそれに比べると電信柱と爪楊枝ほどの違いがある。文学の歴史においても同じことが言える。私達が記紀・万葉、物語文学や、古今、新古今をいささかなりとも常識として心得ているように、彼らはその長い歴史を常識として心得ている。参加者は決して大学の研究者達とは限らない、むしろ普通の人々なのだが、その人たちが、いとも平然と歴史を常識として語り、論じていることに、いまさらながら驚くのはむしろ非常識と言わねばならないかもしれない。私はこの会議の参加して教えられることの多いのを感謝している。


 と言うまじめな前置きは別として、今回も旅物語として報告を始めよう。実は定年後海外旅行はビジネスクラスを使うことにしている。歳のせいで、回復力がまったく衰えているので、必要経費として無理をしているのは承知で在るが、その分、家計に響いていることも事実なのだ。しわ寄せは家内に押し付けているわけだ。だから決して余計な出費はしないことにしている。


 この会議のありがたい点は会費の安さである。宿泊費から三食の費用、エクスカーションの費用全て会費の中に入っていて、7日間で、5万円そこそこなのだから、不思議な気がするくらいである。お小遣に5万円ほど持っていったが、殆ど使うところが無い、と言うのが本当のところなのだ。その代わり、スペインの料理は美味しかったか?とか、有名な観光地の名前を挙げて、どうだった?などとたずねられても、そんなんしらん、と言わねばならない。なにしろ一週間TVは愚か新聞も無い修道院での生活なのだ。一日が終わって、修道僧のような部屋のベッドに横たわると、静かな世界だけが身を包む。道路側の部屋になった小川さんは、暴走族らしい音に悩まされたと言うが、私にはとんと聞こえなかった。
 今年初めて国際通話が出来る携帯電話なるものを持っていったので、
阪神が一位になったことはいち早く家内が知らせてきた。なるほど便利なものだと思ったが、実はこれには後日談と言うか、裏話が在るのでおいおい語ることにしよう。





      第十回ICWEL参加の報告(2)


 まずは順調に関西空港を飛び立った。フランス航空のビジネスクラスは、案外と言うか、予想以上というか、割合込んでいた。ビジネスクラスを使う人が増えたのだろう。エコノミークラス症候群とかの恐怖も一役買っていることは確かだ。なんと言っても金をかけると楽が出来るのは当然だろうが、一度ビジネスクラスの味を覚えると辞められなくなる。麻薬のようなものかもしれない。現役時代は常にエコノミーだった。それでも学会から帰るとすぐ翌日から教室に出ていたのだから、若いと言うことは素晴しい。反対に、歳をとると金がかかる。


 ビジネスクラスの特典はもう一つある。空港で、その会社のラウンジが使えるということだ。そこでは何でも飲み放題、食べ放題である。だから飛行機がCDGつまり、シャルル・ド・ゴール空港に着陸してから、マラガ行きに乗るためには三時間ばかり待ち時間があるのだが、その間、フランス航空のラウンジでゆっくりとコーヒーを飲んだり、サンドイッチを食べたり、ワインを飲んだりして過ごせばよい。ソファーも良いし、荷物の心配もそれほど神経質にならなくても良い。トイレも奇麗だ。


 CDGの着いたのが現地時刻で17:15、予定通りの到着だった。マラガ行きは20:35発だから、ラウンジでゆっくりしてゲートに向かった。乗り換えは空港の場合、特にCDGの場合は特に自分の行くゲートを確認する必要がある。よく変わるのだ。一昨年はそれで大変な目にあった。で、よく確認してから指定されたゲートに行くとまだ待っている人が少ない。ゲートの入り口にある案内板に搭乗するはずの飛行機の番号も出ていない。まあ、何かの都合で遅れているのだろうと持参した最近ご贔屓の佐伯泰英を読みながらたかを括って待っていると、「あのオ、やくしがわさんではありませんか」と優しい声がしたので、振り向くと、小川さんが立っている。小川さんは先にどこかへ立ち寄ってからマラガへ行くので、多分私より先に到着するとか言っていたから驚いたが、兎に角異国の空港で仲間が出来たのは嬉しい。


 暫くして小川さんが「変ですね」と言い出した。確かに変である。飛行機も小さくなる支線のようなところだから客も少ないのかもしれないが、誰も来ないのだ。登場客も航空会社の人も来ていない。ゲートの前は静か過ぎる。国際派の小川さんはさすがに反応が早い。小柄な身体で素早く走り回ってきて、「やっぱり、また変わっていますよ。ゲートはあちらです」とひっぱって行ってくれた所には、登場客が並んでいた。かくして無事乗り換えは完了したが、僕一人ならどうなっていたことやら。


 マラガに着陸したのは予定では23:05なのだがとっくに30分は遅れていた。小川さんの話を聞いていると、飛行機の運行予定が狂ったために、彼女は乗るはずの飛行機に乗れなくて、最終的に偶然私と同じ飛行機に乗ることになったらしい。そのため荷物だけが先に行っているかもしれない、という妙な羽目になっているという。そんな目に逢ってきたものだから乗り換えにはかなり神経質になっていたようだ。そのおかげで私も危うく乗り遅れるところを助かったわけである。


 問題はマラガで彼女の荷物がどうなっているかであった。例の回転寿司のように並んで出てくる荷物を待っているが、私のスーツケースはなかなか出てこない。ファーストクラスやビジネスクラスの荷物は特別扱いになっているから早く出てくるはずなのだが出て来ない。小川さんのスーツケースは当然というか、やはりというか、出てこない。素早い小川さんは、すぐさま遺失物係りのところへ駆けつけて事情を説明している。私も諦めてそちらへ行ってみると、私のスーツケースはそこの回転ベルトの上をぐるぐる廻っているではないか。お寿司なら干からびている頃だろう。何でそうなるの、と言いたくなるが、兎に角出て来たので助かった。


 助からないのは小川さんだ。英語の巧みでないスペイン人を相手に、悪戦苦闘の上、出てきたら、マリエッテさんの住所に届けるように頼んで、兎に角宿に向かうことになった。着の身着のままの小川さんは気の毒にしょんぼりしている。でもマリエッテさんの住所まで控えているのはさすが外国を旅慣れている人だけの事は在る。
 どうやら彼女の宿は私の宿に近いらしいので、一緒にタクシーで市内に向かった。私のホテルはすぐにわかったが、運転手さんは小川さんのホテルもわかるというので、心配だが、彼女一人でホテルに向かってもらった。
 翌朝彼女が私のホテルに来てくれて一緒に何時もの修道院というかセミナーハウスに向かった。正しい名前を彼女が言うと運転手君が怪訝な顔をするので、「セミナリオ」と私が叫ぶとわかった、と走り出した。












      第十回ICWEL参加報告3
                        

 二日目だったか、マリエッテさんが小川さんにスーツケースが届いたよ、と知らせてきた。兎に角これで小川さんの荷物の一件は落着して目出度し目出度しと言うことで収まった。海外へ行って、荷物が行方不明になることほど困ることはない。私も一度それを経験したから良く判る。といっても自分で注意しようがないので困るのだ。


 余談はこれくらいにして本題に入ろう。第十回ICWELは二千九年九月二日の日曜日から始まった。例によって、マリエッテさん苦心のスペイン−英語によるバイリンガルの美しく分厚い発表論文集が配られ、それぞれの部屋の鍵が渡されて、銘々部屋に落ち着いてから、午後二時の昼食となる。開会の歓迎会は、まだ陽の明るい七時半から会場の部屋で開かれ、通称マイスターことギターのマニュエロ・ムレロに今年はフラメンコ・シンガーとダンサーのメルセデスが加わった三人によるギターと唄とフラメンコ・ダンスで始まった。いかにも南国スペインの熱気をはらんだ開会式であった。九時に夕食で散会となる。


 歳の所為か、長旅が応えて、シャワーを浴びると直ぐにベッドに入った。三日からいよいよ本格的な会議が始まる。一日中発表が続くのだが、二時の昼食後、五時半までシエスタが在る。これ幸いと昼寝をする。時にはそのために午後の発表に遅れることもあった。


 ICWELのヂュモン会長による基調講演が、マリエッテさんの代読で行われた。今年の共通テーマは大体11世紀から15世紀にかけての詩の動向、と言うことになっているから、会長の講演もそれに沿ったものである。その頃の言葉が公用語としての古典語から、地方語による表現に変わってゆく過程が、様々な詩人たちの例を挙げて語られるが、残念ながら浅学非才と眠気のため、余りよく判らないまま時が過ぎていった。ヨーロッパの中世文学全体に通じている必要性を痛感すると同時に、こういう内容を普通の家庭婦人であったり、サラリーマンであったりする詩人達が共有していることの凄さに感動した。同時に日本の文化の歴史の浅さと偏りをいまさらながら実感せざるを得ない。


 この国際会議も、スペイン語圏が中心になっているので、勢い話の内容もその文化圏に限られるものが多くなるのは仕方がないが、われわれの教養なるものが、いかにヨーロッパ諸国の文化に限られているか、と言うことを痛感させられることにもなる。その展で、前回、私の知らないアルハミーア語の文学を語って私を戸惑わせたアルフレドウ・レイヴァが今回は何を語るか、私の期待は彼にかかっていた。彼は私の発表の次に当たっている。


 二日目の最初の発表は、スペイン語の変遷が中心だった。アラブの国に占領され、ローマに占領され、スペインの歴史は様々な国に蹂躙された歴史であり、したがって、スペイン語の歴史もまた複雑なものにならざるを得ない。そこでもまた日本の特異性が感じられる。大陸から多くの文化が押し寄せたとしても、それは比較的穏やかな形であり、日本は、それを吸収して自家薬篭中のものにしてしまえる程のものであったではないか。異民族、異文化による支配がどれほどの影響を及ぼすものかは、理解の外にあったのではなかろうか。今なおイスラム文化の姿を残しているこの地に比べて、それが幸福な歴史であったかどうかは判らない。スペイン語の揺籃期からその進化の歴史を語るホセ・ギル・マーチンの発表は、スペインの人々には常識なのかもしれないが、私には全く知らない話であり、そうか、そうか、で終わってしまった。民謡と言ってよいかどうか判らないが、”Popular Poetry from beginning up to the end of the Middle Age” と言う魅力的な演題で語ってくれたウルバネイハのペーパーは興味あるものだったが、ここでもまた私には全く初耳の言葉がでてきて理解に苦しんだ。


Mozarabic と言う言葉なのだが早速家に帰って大英和辞典を引くと、ムーア人征服後、ムーア王に服従することを条件に、信仰を許されたキリスト教徒のことと書いてあった。日本人の歴史認識をはるかに超える背景を持った言葉ではないか。我々が気安く『言霊』などと言っているが、スペインの人々にとって『言霊』とは屈従の歴史を踏まえた意味を持っているのだ。そういう歴史の中で、民謡がどのように成長して言ったかが語られたのだが、そこまで理解の行っていなかった私は、民族の「内的歴史」と言う語りえない内容を伝えるもの、と言うところに強い感銘を受けた。それこそが「言霊」ではないか。歴史の後に硬く秘められた民族の心がその言葉に込められて、それが民謡となって面白く、やさしく語られている、と言う側面を彼は示したくれた。歴史とは学者が研究して語ってくれるものではなく、「民謡」のような形でこそ伝えられてゆくものだと彼は言う。私にとっては、今回のハイライトと言うべき発表であった。今から思えば、噴飯物のつまらぬ質問をしたものだ。彼が返答に困っていたのも当然かもしれない。





       第十回ICWELに参加して(4)

 「民謡」には教育的な側面と、ちょっとしたエロチックな側面とが在るのはどこの国でも、いつの時代でも同じだろうと思う。だからそれほど特異な起源を持っているわけでもなかろう、というのが私の質問だったのだが、話はそんな簡単なものではなかったのだ。


 「民謡」論の次はリナの発表だ。13世紀ごろのアイスランド・サガを取り上げて簡単な紹介をしてくれていたのだが、その内容より、私が驚いたのは、ケニングなどと言う言葉が彼女のみならず、参加している普通のご夫人達にとって、それほど特異な言葉でなさそうであることだ。考えてみれば、私達はその言葉を文学史の時間に聞いたのが初めてで、海のことを「白鳥の道」とは上手く言ったものだなあ、と感心したのを覚えている。ここでも彼我の常識の差を痛感させられたのである。


 ここでケニングの話を聞くとは思って居なかったので、手を挙げてリナに学生時代のことを思い出してとても楽しく聞かせてもらった、有難う。と言ったのだが、後でリナの言うには、コイチが手を挙げたときは冷や汗が出たわよ、だって。意地悪質問をするものとばかり思われていたらしい。リナは細かいことによく気の着く可愛い、と言えば失礼なのだが、おばさんなのだ。例えば僕が話をするときになると、段上のテーブルに並んでいる小さな国旗の列をそっと入れ替えて日の丸の旗を僕の前になるようにしてくれる。小川さんが壇に登ったときもそうだった。温かい家庭の様子が目に浮かぶような人なのだ。


 リナの次にはエルヴィラ・レビがソロモンの雅歌についてのペーパーを読んだ。歌の中の歌と言われるソロモンの歌なのだが、残念ながら全てを覚えているわけではないので、いささか眠たいだけだったのは申し訳ないことだった。この美しくも不可思議なソロモンの雅歌に彼女は様々な解釈をして見せてくれる。勿論それは参考書の助けを借りてのことなのだが。たぶんキリスト教徒たちにとってソロモンの雅歌の様々な解釈は周知のことなのだろうが、私には事新しく聞こえた。そして、こういう国際会議に出るためには、聖書の知識が不可欠だと言うことも改めて痛感した次第である。国際交流の難しさは、単に言葉の障壁にあるだけでなく、それぞれの国民の文化の根底に在るものに対する知識をある程度知っていることが必要なのではないだろうか。互いに詩を朗読しあって、たわいのないことを喋りあっているだけでは、本当の国際交流とは言えないだろう。


 今までいろいろの国際学会に出席してきたが、考えれば、学会と言うものは全て同じ土壌の上に成り立っている会議だった。そこでは共通した常識があった。その上、言葉の障壁もなかった。今こうして詩人達の国際会議に出てみると、しかも、今までと異なる文化的背景の中に入ってみると、今までとは違う様々な経験が出来る。それにしても、スペイン語を自由に操れればもっともっと楽しいだろうに。英語が世界語になりつつあるといってもまだまだ世界は広い。英語だけで世界と交流することは難しい。


 四日目は一日中エクスカーションの日である。我々が向かったのはコルドバのプレイゴと言う古い町である。オリーブ・オイルのテイスチングをさせてもらったり、互いに詩の朗読をしたり、メルセデスのダンスを見たりして楽しい一日を過ごした。


 五日目は一日発表が続く。小川さんが和泉式部を語り私は余り人の知らない、二条院讃岐の話を勝手な空想を交えながら喋った。小川さんはまじめな学者らしい手堅い発表だった。それに比べて私の話は学会でないのを幸いに極めてよい加減な空想話といったところである。でもそのために俄仕込みの国文学を少しでも学べたのはこういう会議があればこそだ。小川さんの話を聞いてからこっそり抜け出して部屋に帰り、ぐっすり寝込んでしまった。疲れが溜まってきたようだ。私の出番は六時半となっているので、それまで少し休憩を決め込んだ。



 小川さんが私の話に食いついてきた。詩人として讃岐と和泉式部とあなたは個人的にどちらが優れていると思いますか、という質問。これは難しい。日ごろ沢山送られてくる詩集や同人雑誌を読んでいて、思うのだが、えてして巧みに見える詩ほど感動は少ないものだ。和泉式部の詩は確かに上手いと思うが感動がない、と言うようなことを答えて終わった。これは、必ずしも和泉式部のことを言っているのではない。むしろ、身近にある日本の詩人たちのことを言っているのだ。


学識をひけらかしたり、思わせぶりな言葉を使ったりする詩人が少なくないのがいつも気になっているものだから、小川さんの質問を使って、日ごろの思いを述べてみただけのことなのだが、スペインの人たちには通じるはずはない。
 そんなこんなで五日目は無事終わった。発表が終わると学会の発表でなくともやはりほっとする。


 六日目は一日中のエクスカーションデーである。今年はエクスカーションを沢山入れてくれたので、疲れるが、楽しい会議になっている。


この日はアンテクエラと言う古い城塞都市へ連れてもらった。白い家並みが美しい町である。兎に角美しい。どの家も、玄関先が埃一つなく掃除が行き届いているのだ。窓枠の金具についている真鍮がピカピカに光っている。開いているドア越しに中をそっと窺うと、美しい色模様のタイルが敷き詰められた玄関が見える。土足のまま入るところなのに、まるで拭いたように奇麗にタイルが光っている。細い路地が入り組んだ、城塞都市だが、どの家も、美しい花を飾り、路地の突き当りには十字架がかけられ、花が供えてある。中世の城壁が残る見張り台から眺めると、城の外に開けた白い街並みが広がっている。その向こうにかすんで見える岡は、「眠れるインデアン」と呼ばれる丘だ。


この城塞都市に入る前に訪れてきたのだが、このあたりには古い墳墓が幾つも残っているらしい。丸い土饅頭型の塚なのだが、墓でもあるが、中には、不治の病に罹った人たちを閉じ込めるためのものもあったと言う。入り口になっている坑道を入ると中は広い空間になっていて、その真ん中に深い井戸がある。ここへ捨てられた人々の怨霊が住み着いているような鬼気迫る、と言う感じでもなく、割りに明るい世界だった。そこから見える「眠れるインデアン」の岡は、侵入してきた異教徒と恋に落ちたキリスト教徒の若者達が村から追い出されて逃げたところと聞いた。ここは様々な運命が錯綜している場所なのだ。




 夕食後、城の外の町へ出て、立派な図書館へ行く。広間には沢山の椅子が並べられ、町の偉い人たちが身なりを整えて集まっている。どうやらここで、土地の詩人たちを交えて、詩の朗読会を開くらしい。
マリエッテさんの指名で私も日本語で詩の朗読をする。予めマリエッテさんに渡して、スペイン語に訳してもらって在る詩ではなく、朗々と読めるものに変えて朗読した。こういう場ではこういう朗読のほうが印象的だと思ったのである。マリエッテさんには一寸申し訳なかった。
 この日は盛り沢山な日で、山登りまでさせられた。奇岩怪石が風化して不思議な形を生み出している。あいにくガスがかかってきたために見晴らしは悪かったが、反って不思議な世界を経験できたのは幸いと言うべきだろう。巌の崖にカモシカのような動物がいた。






        第十回ICWELの報告(5)


 アンテクエラでの朗読会はなかなかの盛況だった。地元の詩人達も参加して朗読してくれる。何時もの聞きなれた仲間の朗読とは一味違う声や響きに思わず聞き耳を立てる。心に響く朗読をしてくれた詩人達に声を掛けて、英語で話し、朗読した原稿を貰ったり、詩集を貰ったりして別れた。中身がわかると話も弾むのに、という、何時もの嘆きが心残りなひと時だった。
 いよいよ会議も大詰めに近づいてきた。七日は一日マラガ観光で過ごす事になった。一日観光乗車券を貰って、小川さんと一緒に観光バスに乗る。これで三度目のマラガだが、いまだに観光をしたことがない。ピカソの生家とピカソ美術館へ行く。さっぱりした気性の小川さんは一緒に居ても疲れない人だ。最後にマラガの大聖堂へ行くと丁度お祭りの最中で、多くの人が群れ集い、老若の女性達が民族衣装というのか、お祭り衣装と言うのか知らないが、きらびやかな衣装を纏って、音楽に合わせて踊っている。観客席などなく、人々は踊り手たちのすぐ側で取り巻いている。


 狭い通りは人で一杯だ。スピーカーからは楽隊の音楽や歌い手さんの歌声が、がんがん響いてくる。騒然とした楽しいお祭りだ。これがお祭り騒ぎというものだろう。祇園祭や時代祭りのように観客と祭りとが整然と隔てられているのとは全く違う雰囲気だ。


 昼食はピカソ美術館で軽く済まして九時の夕食に間に合うようにセミナリオへ戻った。開放されて楽しい一日だったがいろいろの所を回ったので、それなりに疲れる一日でもあった。大聖堂では大きな石造りの釣鐘のようなものを発見した。そのあたりの人々に尋ねたが、なんだか判らないものだった。


 いよいよ八日。午前中は前回にも訪れたチュリアナと言う町の放送局へ行くはずだったが取りやめになって、自由時間になった。おかげで明日の出発のための荷造りが出来た。小川さんと同じ飛行機なので、タクシーを頼んだりして過ごすことが出来た。午後のセッションではミルタがチョーサーの話をする。リナの口からケニングと言う言葉が飛び出し、今度はミルタがチョーサーを語る。この人たちの教養の広さに驚いた一週間だった。


 九日、少し早い目にセミナリオを出発して空港に向かう。小川さんは帰国するが、僕はロンドンへ飛ばねばならない。CDGで小川さんと別れてロンドン行きに乗り換える。ここから先の話はプライベートなことなので、遠慮なのだが、一寸だけ話させてもらおう。


 実は家内の実家が酒を造っているのだが、どういう経緯があったのか詳しいことは知らないが、International Wine Challenge と言う品評会のようなところへ出品したら、日本酒で最初の金賞を獲得したと言う。ワインの協会が何でまた日本酒に、と言う疑問が湧くのは当然だが、言われてみれば尤もなところもある。つまり欧米でも当今日本食ブームだと言うことは聞いていたが、日本料理といえば当然日本酒がつき物だと言うことまで気が付かなかっただけなのだ。そこでロンドンの日本料理やさんかどこかがIWCに日本酒部門を作らせたらしい。一方で、日本酒のほうでも昨今はフルーツの香りとかを言い出しているものだから、その辺が一致したのかもしれない。兎に角なんだか知らないが、日本酒をワイン協会が鑑定して金賞を出す、と言うことになったらしい。鑑定士には日本人も入っているそうだがなんとなく割り切れない感じがしないではない。でも、これを機会に日本酒が世界に認められて売れ行きが上れば勿論結構なことだ。


 家内の甥がいわゆる社長をしているものだから、取り巻き連中が是非表彰式に出てくれというので仕方なく出ようとは思うが、英語は苦手中の苦手だ、お兄ちゃん誰か好い通訳を知らないか、という電話がかかってきた。丁度スペインに行って、帰るころ、つまり九月の十二日に表彰式があるという。そんなら通訳なんて頼まなくとも僕が行くぞ、というとそれが一番ありがたい、ということで、なんとなく付き添いになって出かけることになったという次第である。


 思えばもうかれこれ二十年は行っていないイギリスだ、ちょうどいい機会だ、というので早速手配をした。どうせならお兄ちゃんの日に合わせて九日にロンドンで落ち合って、そこいらを案内してくれや、ということになった。飛行場と言うところはただでさえややこしいところなのに、英語の出来ない甥と待ち合わせるのは困難を極める。そこで、海外からでも掛けられる携帯電話なるものがあることを聞いて、二人が同じ機種を持ってゆくことにした。


 これはまことに便利なもので、スペインに居るときも今までなら公衆電話で苦労しながら、時には何故か判らぬまま損をしたりしていたのに、これが在ると簡単に家へ電話が出来る。家からも掛かってくる。だから阪神がリーグトップになったときには家内から早速、一番になったえ、とかかってきた。


 で、それを持ってヒースローに降り立ったのだが、マラガの空港が新しくなり大きくなって、二年前とは見違えるほど立派になっていたし、CDGはややこしい空港だが、立派な空港に違いない。それに比べてなんとヒースローの汚いことか。ここへ降りるとなんだかほっとしたのが夢のようだ。建物も汚いが、行き交う人間も汚い。いささか幻滅の悲哀を感じながら甥の到着を待った。予定では一時間後に到着するはずなのだ。念のため、到着の出口はここだろうな、と言うことを係員に確かめて待っていたが、一向に出て来ない。荷物の受け取りに時間がかかるといっても長すぎる、と思って、また案内所で尋ねると、それならターミナル2へ行かねばならないと言う。早速ケータイを出して電話をすると、甥は確かに到着して、かねて言っておいたとおり、出口でじっと動かずに待っていると言う。大慌てでターミナル2へ走るが、地下道を走ったり、エレベーターに乗ったりしてやっとたどり着いたが甥の姿が見えない。電話をする。今どこに居る、そこにどんなものが見える、近くに来ているからもう少し待っていてくれ、動くなよ。と言うような電話をしながら走り回っていると、彼の姿が見えた。なんと言うことはない、すぐそこにいたのだった。ケータイの有難さをこれほど感じたことはない。ケータイさま様だ。


 と言うどたばたの挙句二人はホテルに無事チェックインできた。長旅で疲れたろう、と言うが若い彼は元気なもので、こちらはヒースローの中をあちこち走り回ってくたくたなのに、お兄ちゃんの言っていたパブへ連れてゆけ、と言う。丁度喉も渇いているし、よっしゃ、行こうか、となって出かけた。大英博物館の前にパブが在る。丁度夕方七時頃だったろうか、席はなくなっていて、カウンターに陣取って、まずはイギリスのビターを注文する。こんなはずはなかった、と言う感じの味で、いまいちぴんと来ない。で、片っ端から並んでいる銘柄を飲んでゆくことにした。甥は一パインと、僕はハーフパインとで飲んでゆくが、十種類ばかり飲んだろうか、飲んでいる途中で、隣に座っていた女の子と喋りだした。甥も英語は出来ないのに、適当に身振り手振りで喋っている。なかなかやるもんだ。仲良くなって、翌日もここで会おうと言う約束までしてしまった。が、これは見事にすっぽかされてお終い。


 翌日の十日から大英博物館から始まって、ロンドン見物に出かけるのだが、こちらは可也疲れが溜まってきている。元気一杯の甥の早足に着いて行くのが精一杯だった。十一日になると、彼も気が付いたのか、昼飯前になった頃、お兄ちゃん、疲れたやろからホテルで待っててくれ、俺は一人で歩いてくる、といってさっさと一人で出て行った。一寸心配だったが、地図を持っているし、彼の勘は鋭いから、部屋に戻って寝転んでいたが、六時になっても帰ってこない。仕方がないので一人で夕食を食べて、部屋にもどったが、電話をしてもまだ帰っていない。まだ日の長いロンドンだが、ようやく薄暗くなった頃、今帰った、と部屋に電話をしてきたのでほっとした。明日は表彰式だ。羽織袴を一人でちゃんと着られるのかな、などと心配しながら寝てしまった。


 招待状にはブラックタイ着用のこと、とあるそうだが、結婚式に呼ばれたときくらいの格好で行くことにして日本から出てきたので、ダブルのダークスーツにねずみ色の蝶ネクタイで彼の部屋に行ってみると、なかなか立派な羽織袴姿で待っているではないか。何かあると何時も着とるから、慣れとるがや、というがなかなか堂に入ったものである。好奇な目に送られながらコンシェルジュにタクシーを頼んで会場へ向かった。会場にはさすがにブラックタイの連中が集まっている。


 ハリウッドのオスカーを貰うような晴れやかな会場で、次々に名前を呼ばれて受賞者が壇上に登ってゆく。決して上背のあるほうではなのに、羽織袴で堂々と歩く姿は大きく見えた。光り輝くトロフィーと賞状を持って甥は帰っていった。帰れば帰ったでまた大変だろうと思う。しかし子供だと思っていた彼もなかなか立派な商売人になっている。こちらが八十二手が届くと詩になっているのも当然だ、と納得するロンドン行きであった。個人的な話をつけて申し訳なかったが、ちょっと珍しい経験なので、お許し願いたい。



                                   終わり








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