東北の旅芭蕉の旅(05年)
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関西詩人協会会員 |
松本一哉 |
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江戸の芭蕉庵跡 |
東北が好きだ。年に一度は旅に出る。『おくのほそ道』もまたすばらしい。
昨年は、四月に大垣を、そして十月に一関から平泉を訪れた。
芭蕉の風景
松本一哉
左岸に木造の燈台があり 直下が港跡で 一艘の運送船が舫われている 江戸期は かなりの賑わいをみたという
“蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ” 美濃の俳人に惜別し 芭蕉はここを乗船した
落花が 船に舞いおりる
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水門川は 城を囲み
直角に折れて流れている 外堀を兼ねたのだろう 清流だが いまは藻草が茂り 巨鯉が処々を群泳する
“伊勢の遷宮をがまんと” ここを揖斐川に出 芭蕉は桑名に向った
♯ ♯
“奥の細道結びの地” 港の対岸 木因(ぼくいん)は芭蕉をみつめ 蕉像は〈不易〉をみつめている あるいは永遠を
道を距てて 遊戯場(パチンコ)はできたが 芭蕉はそれを拒まぬだろう
※木因 大垣の俳人
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元禄二年(1689年)三月二十七日、芭蕉は曽良を伴い、江戸の庵を立ち、奥羽北陸巡遊の旅に出る。日光、仙台、松島、平泉から最上川を舟下って酒田、象潟から日本海岸を南下、福井を経て八月二十日過ぎ大垣に至り九月六日まで滞在、その旅の記が『おくのほそ道』で、この旅行中に芭蕉は不易流行論の着想を得た。
大垣は(1)、即ち『おくのほそ道』結びの地であり落花がしずかに舞う頃であったが、それを“芭蕉の風景”という詩にした。
大垣や美濃は俳句の盛んなところなのだろう。長良川畔のホテルに一泊したが、そのロビーにも芭蕉の句の額が掲げてあった。それは黒と朱の墨で書かれており
“ひとつば”
夏来ても
ただひとつばの
一葉かな
金華山に自生するシダ類で、一年を通じ一本の茎に一枚だけ葉をつけるところから「ひとつば」と名付けられたという。
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十月、秋深まる頃平泉(岩手県)(2)を訪れた。藤原清衡、基衡、秀衡三代百年をかけて築かれた黄金仏教都市で中尊寺(ちゅうそんじ)や毛越寺(もうつうじ)にその名残をとどめている。
中尊寺は嘉祥三年(850年)慈覚大師円仁の開基と伝える天台宗の東北大本山。のちに藤原清衡が堂塔を造営した。
建武四年(1337年)の火災などにより堂塔はほとんど焼失したが絢爛の金色堂と経蔵は災厄を回避。金色堂は建造物としては日本で最初の国宝に指定された。
毛越寺は中尊寺と同年にやはり慈覚大師円仁が開基、基衡が七堂伽藍を秀衡が僧坊を建立、盛時には堂塔四十、僧坊五百を数え中尊寺をしのぐ規模と華麗さを誇ったというが、建物は度重なる災禍ですべて焼失、本堂も平成元年の再建になる。
大泉が池を中心とする浄土庭園は広大で美しく、また平安時代の伽藍遺構もほぼ完全な状態で保存され、国の特別史跡、特別名勝の二重指定を受けているし、山水を引き入れた遣水も発掘復元されている。
さて平泉はまた義経のふるさとだ。NHK「大河ドラマ義経」の放映にあわせ、街なかの街路樹には一斉に「義経ゆかりの地」の幟が立てられている。
義経は鞍馬を出てから秀衡の庇護のもと16〜22才を平泉で過ごした。源平の戦(1180年)では鎌倉に赴き頼朝とともに平家を亡ぼしたが、のち確執が深まった。頼朝は義経追討を企て福島北方で奥州軍と対峙。泰衡は秀衡のあとを継いだが、ここで義経を衣川館(高館の説もある)に襲撃。義経は自害、泰衡も敗死し奥州藤原氏は亡んだ。
芭蕉は書く、「三代の榮耀(えいえう)一睡の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたにあり」…
「さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。」…と。
平泉は芭蕉『おくのほそ道』の旅の折り返し点で
「夏草や兵どもが夢の跡」
「五月雨の降のこしてや光堂」
(諸説あるが、何百年も降り続けた五月雨もここ(金色堂)だけは朽ちさせることができなかったのだろうか、の意。「光」は一種崇高さを表わすか。)
などの句を残した。
一帯は2008年、世界遺産に登録される。
翌日、一関にもどり二つの渓谷、厳美渓(げんびけい)と猊鼻渓(げいびけい)を見る。
厳美渓は栗駒山から流れる磐井川の急流が川床の石英安山岩質凝灰岩を侵食してできた渓谷で、奇岩、瀧、深淵が2qにわたって続いている。
猊鼻渓は北上川の支流砂鉄川の両岸にそそり立つ30〜120mの絶壁が見もの、大猊鼻岩折り返し、一時間半の舟上り下りが楽しめる。船頭が追分を歌う。巨鯉や渓流魚が舟側に戯れる。日本百景の一つ。
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左が猊鼻渓、上が厳美渓 |
*(1)『おくのほそ道』五〇、大垣
(2)『おくのほそ道』二八、平泉 |
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