「第25回ドルスキニンカイ秋の詩祭2014」に参加して    薬師川虹一 

 
 リトアニアの詩人リジア・シュムク―テさん
 

 私がこの詩祭に参加することになったのは、リトアニアの詩人リジア・シュムク―テさんの詩集を翻訳出版したことが縁であった。それ以前から何度も彼女から誘いを受けていたが、年齢からくる不安が先立って、何時も断っていたが、リトアニア作家協会の会長さんから正式な招待状が来るに及んで、断りきれなくなり、かかりつけのお医者さんも、「今は調子が良いですよ、行って来られたら…」とのお墨付きも貰えたので、重い腰を上げることになった。


 2014年10月1日にフィンランド航空で関空を飛び立ち、ヘルシンキで乗り換えて、リトアニアの首都ビルニウスに着き、2日から5日まで、ドルスキニンカイと言うところで開かれる詩祭に参加し、10月7日に帰ってきた。久しぶりの外国旅行であるが、体調が不安で、どうも気が乗らない旅立ちだった。
 招待状と一緒に届いた書類には、参加者名簿と共に、今年のテーマと会長さんの基調講演が英語で書かれていた。”Canonical forms―a relic or the basis of poetry”これは甚だ訳し難い言葉だが、しいて訳せば、「作詩法に則った詩形は遺物か詩の基本形か」とでもいうことだろうか。「定型詩は遺物か基本型か」と訳せば簡単なのだが、私達の現代詩に定型があるかどうかは疑問だろう。Canon と言う言葉はカメラの名前として日本では知られているが、本来は、宗教的用語であり、とくにカトリックの教会の「法規」を意味する言葉であるが、ここでは広く、規範とか約束事を意味すると思えばいい。
 詩を書く場合、ヨーロッパでは、ギリシャ語の詩をもとにした作詩法があり、押韻の形式、リズムの形式、等によって、こまごました詩形が定められている。しいて言えば漢詩の形式に似ていると思えばいいかもしれない。普通我々が知っている漢詩の法則と言えば、「七言絶句」とか「起承転結」起、承、結の各行が、押韻する、と言うことぐらいだろうが、「平仄」等に至っては現代の日本語ではなかなか考えられないものであろう。そのように「印欧語族」(ヨーロッパの言葉は大体これに属するが、日本語は全く語族が異なっている)の言葉には、日本語に当て嵌めにくい性質があると理解しておけばいいだろう。
 しかし日本語にも、7・5調を基準にして文を書くと言う大まかな規範があると言えるかもしれない。演歌などは代表的な詩形だと言える。こういった予備知識をもとにして以下の基調講演を読んで頂ければ、と思う。
ここにその時の基調講演を翻訳しておこう。


 


     「詩の規範型は―遺物か基本か」
                     コルネリアス・プラテリス
                     薬師川 虹一訳  

 
  詩と言うものがさまざまな文化の中に姿を現し、発展してゆくにつれて、いくつかの規範にのっとった型が定着するようになってきた。思うにこういったことは、詩の原型が、集合体としての集団から自然発生的に生まれてきたものから分離して、一人の具体的な作家のものとなる以前から起こっていたであろう。即ち、詩が集合体の儀式から離れて、自律的な言葉による芸術、しかもそれはしばしば音楽に支えられているものだが、になる以前からこう言ったことは発生していたと考えられる。詩の原文の形及びその音楽的効果における二つの要素は、記録者と翻訳者とによる影響を通して変形されながら現在も目に見える形で残っている、即ち、リズムと繰り返し、である。このことから私は詩の起源は儀式であり、同時に、詩の規範的型式は意味をもった言葉の韻律的、音楽的構造の繰り返しなのである、と確信している。こういった形式は、詩の原文を聞く人の心に一層訴えやすくし、唱える人には一層覚えやすくする必要性から生まれてきたと言えるだろう。従ってこれは文字による表記法が生まれる以前から、即ち詩人(この場合は神託を伝える巫女や司祭)が聴衆に原文を読めばいい様になる以前から、生まれていたことであろう。確かにエジプトの司祭がパピルスの巻物を開いて詩を読んでいる姿は想像しにくいし、シュメールの巫女が詩の朗読会に文字の書かれた粘土板を引きずって行く姿も描き難い。
 おそらく詩の韻律的形式が最も完全に概念化されたのは古代ギリシャ人の頃からであろう。彼らはおそらく考えうるすべての韻律形式に名前を付け様々な組み合わせを試みたであろう。他の印欧語族に属する種々の言語における遺産も同様に豊かなものである。これは中国語や日本語、及びその他東洋の諸言語による詩の場合でも、異なった形ではあろうが、基本として作用していると私は思う。ここ何世紀にもわたり、詩の規範的形式は主流となっている――作品としての詩は歴然たる地位を占め、しかもその評価はしばしばそれがどこまで規範的形式を有効に活用しているかに依っている。初めの頃は、詩文は美文と呼ばれ、単なる知識以上のものを伝える文と思われていた。
 今日状況は大きく変化している。詩人たちは今では上着のポケットから或いはハンドバッグから何頁もある詩集を取りだしている。あるいは1と0が一杯詰まったiPad を取りだしてマイクの前に進む。詩人は今や、なにも覚えておく必要はない読み方さえ覚えておけばいいのだ。だがこういった科学技術が詩に本質的な影響を与えただろうか、と私は問いたい。答えはイエスでもありノウでもある。誰だって詩人がある規範に従って創作することを求めはしないし、詩の創作に関心を持つ人の数も総体的に減少してきている。今日では、詩はスクリーンに浮かぶ映像も含め、いかなる媒体も自由に使うことができるし、詩の原文を覚えておく必要もない。しかし、韻律と繰り返しは依然として詩の創作の原則として残っている。それが無ければ、少なくとも私に関する限り、その文が詩であると認めることは難しい。規範的形式は主流から外れてゆく、あるいは返り咲く、あるいは何時か何処かの詩人たちによって広く用いられるかもしれない。だがその力は明らかである。今日ではそれは主として言葉遊び的であるが、ときにそれが持つ基本的要素に回帰しようとする試みが見られることもある。所謂スラム・ラップ詩の場合などであり、それはこの基本に立ち返り新しい世界を構築しようとする試みである。とは言うものの古代のリズムを復活させ、自分たちの経験を、それを通じて表現しようとする詩人たちはきわめて少ない。しかしながら伝統と交りあうと言うことは、もしそれが単なる模倣を超えるものなら刺激的なものになりうるであろう。
 以上が、今年の会議において今日における規範的形式の重要性について語り、各国から参加された仲間たちの経験を共有し、それぞれの伝統に対する彼らの姿勢を知ることが重要であると考える所以である。    以上



左が会長


 このような基調講演をもとに、激しい討論が交わされたが、残念ながら、その流れについて行けないほど英語の力は落ちていた。年齢による衰えをしみじみと感じてしまう今回の参加であった。聴力が落ちたと言うことはあるが、言い訳はしたくない。
 聞き取れたところでは、確かに規範的形式は今もあるし、意味もあるが、果たしてそうでなければ成らないほどのものであろうか、と言うのが大方の意見であったようだ。
 基調講演でも触れていたが、日本語でもここに言われている様な規範的形式と言えるものがあるではないか、と言うことにまで話が伸びて、例えば俳句があるではないか、と言うことが話題になってきて、話題が私に振られてきた。「確かに俳句は、5,7,5とシラブルを揃えることが必要だし、それは日本語の基本的リズムなのかもしれないが、果たしてそれが規範、とまで言えるかどうかは判らない。むしろ今日世界中、どこの国にも俳句協会のようなものが存在すると言うことに問題がある。5,7,5と言うシラブルの形式さえ取れば、それで俳句だ、と言うのが現在の世界の風潮のようだが、それは全く形式主義と言うべきであって、それだけで俳句とは言えないだろう」という意見を述べて、ついでに、日本でも、「ソネットだとか、テルツァ・リマだとかの形式を真似て詩作する場合もあるが、私はあまり意味を持たない試みだと思っている」とも付け加えた。
 討論会が終わってから、場外でイギリスから来た詩人に、「今でも、例えばヒロイック・カプレット(英雄体二行連句)で詩を書いている人がいるか。ヒロイック・カプレットを使わねばならない内容があるか?」」と尋ねてみた「いるよ。そりゃあ、内容に依るから」と言うのが彼の答えだった。その通りだと思う。「いる」とは言っていたが、「読んだ」とは言っていなかった。「心が昂ぶってくるとその昂りを抑えるためには韻律形式と言う枠をはめねばならなくなる」とかエリオットが言ってた様に思うが、そこまで高揚する心があるかどうか、がまず問題だろう。
 

 しかし、とても活発な討論会だったし、有意義な集まりであったことは確かだった。同時にやはりかなりの英語力が必要だと、実感した。とは言え、今回ほど自分の年齢を痛感させられたことは無かった。身体の老化はもとより、脳みその老化は我ながら落胆の限りだった。 


 
右端は、シーズン・オフのドルスキニンカイの風景
お土産物屋さんの屋台が全部閉まっている
 
 ドルスキニンカイと言うところは、森の中に造られた保養地である。ひょっとすると、リトアニアがソ連領であった頃から造成されたところかもしれない。辺り一面緑の森で、そこに様々なホテルやセミナーハウス、レストランなどが造られている。プールやスパを備えた娯楽施設もあった。リジアさんは毎日のようにそこへ通っていたようだ。「コイチも行くといいよ」と誘われたが流石にそれだけは断った。朝、朝食前に散歩に出ようとすると、玄関にかけられている寒暖計はきっちり零度をさしていた。土産物を売る店は、二・三軒あったが、多くは簡単な掘っ立て小屋で、それも殆どが暖簾を下ろしてしまっていた。昼間になると露店が二・三道端で店を開いているくらいである。全くと言ってもいいくらい何も無い保養地だった。ただただ美しい緑に囲まれた世界で訳の判らぬ外国語に囲まれた五日間であった。
 その他、私は行かなかったが、ソ連に占領されていた時代の遺物を並べた博物館のようなものがあったそうである。もう一人の日本人である管啓次郎さんが行って来たそうである。考えてみれば、リトアニアという国は可哀想な国である。ポーランドやソ連、ドイツなどに何時も占領され続けてきた国であり、自分の国と言うアイデンティティを作る暇もなかったかのかもしれない。 


街の様子
   


 首都ビルニウスと言う町は美しい町だ。とくにその旧市街はゴミ一つ落ちていない清潔な町だった。古い寺院が沢山ある落ち着いた街であり、ホテルの近くに在った聖テレサ教会に入ってみるとちょうど朝のミサの最中だった。端っこでしばらく参列させてもらって、すがすがしい気分を味わったのもいい思い出である。
 旧市街の中心に大聖堂がある。その広場に、名前を忘れたが、昔の英雄らしい人の銅像が立っているが、鎖鎧のようなものを着て、馬の戦車に乗った姿はローマの戦士と言うより、何故か東洋の、蒙古の戦士のような感じがした。ひょっとすると、昔、匈奴と言われた部族が攻め込んできた時の様子かもしれない。
 私が最初の日に泊まったホテルは「夜明けの門」と言われる城壁の入り口になっている建物の近くだったので、そこへ行ってみた。そこには、リジアさんが「ダークマドンナを見て来い」と言う、黒い顔の聖母像があった。キリストの母親はエジプトの人だという説や、アラブ地方の人だという説などがあって、結構小説のネタになっている。その根拠の一つでもあるとか聞いている。とにかく件の教会に行ってみた。ちょうど朝のミサが行われていたので、端っこに立って、ミサに参加させてもらった。気持ちのいい朝になった。 



 

 10月2日。リトアニア作家ユニオンに集まった諸国からの招待客は、午後4時チャーターされたバスに乗ってドルスキニンカイへ向けて出発した。バスは旧市街の細い道をがむしゃらに走ったタクシーに勝るとも劣らぬ猛スピードで走る。リトアニアの人々はなんという走り方をする人たちだ、と思った。二時間ばかり猛烈なスピードで走って、ドルスキニンカイの宿舎に到着した。
 部屋はこじんまりとした良い部屋だったが、バスルームにはシャワーしかなかった。当然と言えば当然だが、やはり日本人にはいささか複雑な心境になる。
時はもう十月だが、時間は夏時間のままだ。6時、まだ辺りは明るい。予定ではflag raising なる儀式があると言う。ユニオン旗掲揚、である。いささか漫画チックだが、皆さんポールの周りに集まって、ユニオンの旗が上がるのを見ている。それから夕食になり、2日はそれだけで終わった。 




 3日。いよいよ始まる。四角く並んだ机にそれぞれの名前が書かれて席につく。コルネリウスさんが、先に翻訳した基調講演を英語で述べる。終わるとすぐさま討論に入った。まくしたてる様な英語が飛び交い、残念ながらとてものことについていけなくなって、沈黙。コーヒーブレイクの後、今まで発言しなかった人たちが指名されて発言する。私も先に書いた様なことをその時に発言して、やっと討論に参加できた。国際交流には英語力が必要不可欠なのだ。朗読するだけでは交流にならないのは当然だろう。こんな筈ではなかったのに、と思いながら、その日の会議は終わることになった。 



 4日、ここからはどこの詩祭でも同じことだが、それぞれの国からきている人々が、それぞれのお国ことばで詩の朗読をする。私も自作詩を日本語で朗読した。日本語が会場の天井に木霊する。リトアニアの詩人たちだけの集まりがあって、リジアさんがぜひ参加してくれと誘う。リトアニアの人々の中におずおずと入って、やがて彼女が紹介して、私の朗読が始まった。判るのか判らないか判らないが、とにかく当然の様に拍手喝さいで終わる。これがお祭りと言うものだろう。どこの国でもおんなじだ。 



 帰国して、月が改まると、関西詩人協会の総会が始まり、吉田定一さんの講演があった。それは、リトアニアで聞いたのと同様のリズムと繰り返しが中心になっている。コルネリウスさんの基調講演と同じ主張ではないか、と気がついた。講演後、吉田さんに声をかけて、リズムと繰り返しの効用がリトアニアで問題になったことを話して、大いに共鳴されたのが印象的だった。 


                            以上                                                            

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