人と人は分かり合えるのか

 


青葉みなと  

 


人と人は分かり合えるのか、と言ったことを考えさせられることがあった。いくらこちらが話しても相手がそれを受け取ることができないのだ。その理由は価値観が異なることがまず第一に挙げられる。私とその人は時間をいくらかけて話し合ってもお互いが了解することができない。
 
その人は幼稚園教師だった。私がトラブルになってしまうのをおそれ、進言忠告したのであったが、相手はそれを受け止めることができなかったのだ。理由は伝言ばかり気にとられた相手は私の発言を聞いていなかったことによる。伝言や詮索や噂と言ったおよそコミュニケーションとは言えないやり方でお互いの意向を伝えあうという方法をとっていた相手とは双方の意志の伝達は不可能である。そのことを思い知らされた出来事であった。
 
それにはそもそも教育の価値観に極めて画一的な人間像があり、皆同じであることを要求されるという考え方が背景にある。しかし、集団の色に染まり、社会の駒として生活するだけでは面白くもない日常であることだろう。人はそのようなだけの存在ではないはずである。
 
人は知性や感性、感情を持った霊的な存在である。その人間を他人によって記述されうるものであるとする考え方は神に対する冒涜であると感じる。どの人にも神さまがいて、他人から説明解説解釈されうる客体として存在しているだけではなく、主体として存在しているはずである。
 
人を理解するには対話が重要である。お互いの思いを一対一で話し合う。それは目の前の相手の存在に対して投げる言葉のキャッチボールである。言葉を選びながら抱いている思いに触れることが出来たとき、深い交流が成立する。それは根気よく続けられる愛の行為である。
 
夫婦と言った長い間共にいる相手との会話においてもお互いに話し合うことは極めて大切なことがらである。長い間にはそれぞれの遍歴がある。大切なことは互いが違うことを知り、理解しようと努めることだ。
 
ひとりひとりの性質が異なることを前提にお互いの個性を認め合うことができたら、お互いを了解することができる。そのような過程が大事である。
 
多様性が叫ばれている現在において、それぞれが異なる性質を持つ異なる他者であり、お互いの違いを認めあうような文化を育んでゆけたらとても嬉しいと思う

 

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