詩を書き続けるということ


三浦千賀子

 

 

 三歳のときに結核性股関節炎になり、右足に障害を持った。小・中の体育の時間は、一人運動場で見学していた。――一度でいいからみんなといっしょに運動場を走りたい……その切実な願いが、私の個人誌「憧憬」の題名になった。
 ハンディはあったが期せずして、私は中学校の社会科の教員になった。立ちっぱなしの教員という仕事に、ハンディのある足は、無事に応えてくれ、おまけに卓球クラブの顧問までやらせてもらった。
 社会科の授業では、基礎的学力をつけるために?全員発言?の授業にとりくんだり父母の戦争体験の記録にとりくんだりした。
 又、学校の?荒れ?の時代、ヤンチャな中学生と対峙したりした。
 すべての体験は私の詩のテーマとなった。中学生が好きだった、と詠ったこともあるほど、子ども達が好きで、私のかつての国道沿いのマンションは髪を染めたヤンチャ達の溜り場であった。
 三十一年間の教員生活を終え、出会った障害を持つ子ども達の執筆に取りかかった。今でいう支援学級の担当もし、発語のない自閉症児三人に出会った。個性的な三人との出会いで学ぶことは多く、彼等の成長の可能性の糸口をつかみ胸が熱くなることも何度もあった。?自閉症の中学生とともに?という書名で出版された。
 教員を辞めてから教育相談員として十八年間、上六の相談室に通った。学校へ行けない子ども達、親達、ひきこもりの青年達が相談室を訪れた。戸建の時代、バス、電車、二つの地下鉄を乗り継ぎ、万歩計で一万歩以上を記録する私の足にとってはハードな行程であった。その乗り物で出会う人々、地下街の喫茶店で出会った人々。詩のテーマはたくさんあった。
 その私が今は、すっかり歩行困難になり、どこへも行けなくなった。二年ほど前にパーキンソン病と診断された。右股関節は融合してしまったらしい。バスにも電車にも乗れず転居先の和泉市のマンションの周囲の地理さえよくわからない。かろうじて歩けたことが私の自由な精神を行動に移させた。たった一人で被災地東北へ行ったことも。詩は自由な精神の発露であった。今、身動きできない身体を持て余しながら詩作の道やテーマを手探りしている。

  

 

inserted by FC2 system