あの頃の濃いおじやの味


来羅 ゆら

 

 70年代の初めごろ、東京に出て出版社に勤めた。
 一人で暮らす部屋は、古本街の神田に近い場所を条件に、安い物件を捜した。
見つかった下宿は、急な階段を上がると三部屋が横並びになっていて、一部屋が家主たちの部屋、あと二つが、三畳と四畳半の貸間で、私の部屋は四畳半だった。
三畳の入居者は、同じ関西出身の漫画家志望の若い女性で、私たちの共通項は金のないこと。金欠になると、近所のうどん屋でバイトをしていた彼女が持ち帰るうどんつゆ、東京の濃い色のおつゆに飯と卵を入れた “おじや”をよく食べた。
 老人に見えた家主の二人は、今思えば、女性のほうは案外若かったかもしれない。
 或る時、男性の息子が訪ねてきて彼女と大声で口論になり、私たちは、女性が妻ではないことを知った。それからは、女性に老妓の面影を重ねたり、永井荷風の世界を見た気がして、火鉢に手をかざしている男性にも、つい目が行ってしまうのだった。
 警察が、しらみつぶしの言葉通りの動きをしていた時期で、夜遅く歩いていると何度も後をつけられた。腹が立つので、隠れたり逃げたりしたためか、家主の所にも聞き込みに来た。
家主の女性のほうは不愉快そうで、警察が来たことを怒っているのか私に怒っているのかわからなかったが、奥にいる男性のほうは飄々として、何にも興味がないような、いつもの感じで静かに座っていた。近くまで忍びよってきている時代の不穏な空気や家族の問題も、静かにやり過ごそうとしているようだった。

 勤めた出版社は社員が10人ほどの小さな会社で、政治と環境に関わる2冊の雑誌を発行していた。
 社長は元華族の出ということだったが、鷹揚な雰囲気と現実離れした言動で、私にとっては初めて見る珍しい生き物のような存在だった。
 社長の夢は作家として名を馳せることで、自社の雑誌にエロ小説まがいの作品を書いていた。堅い雑誌だからこういう小説が必要なんだというのだけれど、どうにか小説の体を成すように、こっそり書き直すのは編集長の仕事で、入社して日の浅い私にも仕事が回ってくることがあった。不思議なことに社長は書き直された小説を見ても、気がつかないのかペンを入れてくることはなかった。

 妻は大手出版社の敏腕記者だったのを社長が引き抜いたと聞いた。
 会社が傾きかけたとき、社長の女性問題も発覚したが、この妻は動じた様子をみせなかった。会社の倒産までの内部の困惑や諦め、外部の怒声も、大きな渦に飲み込まれていくような日々を、私はどこか他人事のような、気怠い気分で見ていた。おとなたちの世界で起きている、古い芝居を見ているようだった。
 ある日、妻が言った。
 あんな男にしがみついて、若い人から見たらバカに見えるよね。前の離婚のあと、戻るのに時間がかかった。行くも千里、戻るも千里。同じ苦しむなら、行く努力をするほうがましだと思うのよ。二度目の出戻りは、帰る家もないしね。
 昭和の初めに生まれたインテリ女性に刷り込まれた結婚観、時代が違えば違う選択をしたかもしれない女性たち。

 最近、若いころ、興味を感じなかったおとなの女性の姿がリアルな映像として浮かぶことが多くなった。
 社長の妻も、初老の愛人の女性も、あれからどんな千里を歩んだのだろう。
 もうこの世にいないだろう女性たちのあれからが、我がことのように、ただ切なく愛おしい。


 

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