『かげろうの日記遺文』室生犀星 に思う


にしもとめぐみ

 


 

 なげきつつ ひとりぬる夜のあくるまは いかに久しきものとかはしる

百人一首でよく知られた句である。作者は『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱の母。権力も地位もある藤原兼家に求婚され19歳で第二夫人となる。正室は時姫。息子の道長は「この世をば わが世とぞ思ふ 望月のかけたることも なしと思へば」と歌った最高権力者。娘は天皇家へ嫁がせている。兼家は気さくで、冗談好きの男だったと言う。かげろうさんは(ここでは取りあえずそう呼ぶ)中古三十六歌仙、女流三十六歌仙、しかも「本朝第一美人三人内也」と記され才色兼備の平安美人であった。かげろうさんの『蜻蛉日記』には兼家との和歌の交換や逢瀬のことが書かれてあるが、当時の権力者は何人も妻がいて通い婚であるのが普通であった。そんな時代に、かげろうさんは第二夫人であるにもかかわらず、毎日来て欲しい、私だけを愛して欲しいと願う一途な女性であった。本文はかげろうさんの切なさが溢れている。犀星は本文には数行しか登場しない「町の小路の女」を作り上げそこに理想の女性像を描く。犀星の会うこともかなわなかった薄幸の母親が映し出されていると言う。犀星の遺文には男女の愛、痴情の苦しさを兼家、時姫、かげろうさん(ここでは紫苑の上)、町の小路の女(ここでは冴野)がそれぞれ胸の内を語る。通して読むのが苦しくなるくらいである。兼家の女道楽が、本人にしてみればどれほど苦しいことか、時姫に安らぎを求めようにも、紫苑の上に求めようにも、心がちぎれてしまう。兼家の女性に求める思いがとうとうと語られる。女性から見れば勝手な男の言い分であるが、男の側からの愛することの苦しさが見事に語られている。紫苑の上と冴野が兼家に「どちらを選びまする」と迫るシーンは妖艶で鬼気迫り、できれば体験したくないよなぁと思う。もてるのも考え物、男はどうして複数愛してしまうのか?『蜻蛉日記』が書かれたのは954年〜974年、39歳の大晦日で筆をおいている。現在の39歳なら女盛りであろうに、かげろうさんは兼家の訪れも絶えどのような寂しさでいたのだろう。文庫本にして3冊、源氏物語が書かれる前、兼家はかげろうさんの文才を認めていて、大変高価な紙を与え、自分のことを書き残して欲しかったようだ。現在残っている『蜻蛉日記』は保存が悪く虫食いで、なかなか後世の学者が読むには困難なようである。        

           参考『『道綱の母』田山花袋 『かげろうの日記』堀辰雄


                 

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