杉山平一「解決」を再読する


阪井達生

 

 読み方が定着している詩とか、教科書のように詳しく解説が添えられている詩はそれが立派な作品であっても個人的にはあんまり好きではない。やっぱり、好きな作品とは自分の感性、できれば理性と共感ができ、なりよりもその作品と旅をしたという読後感が残るものがいい。数年を置いて、また読み返せばまったく違った作品に思え、またひとつ新しいことを教えられる。好きな詩とは私を縛るものでなく、私をより自由にしてくれるものだと思っている。

   解決
                    杉山平一
  古ぼけて煤けた駅であった その窓硝子も煤けて
  いた よく駅夫が熱心に拭っていたが すぐもと
  にもどっていた ある夜のこと その一枚が 戸
  外の闇までつやつや見える位美しくすき透ってい
  るのを見た 近づくと硝子は割れてはづれていた
  のだった 煤けた彼が 何年かねがい 努め 悩
  んだものが そのようにして解決されていた 戸
  外の闇から凍った冬の夜風が吹き込んでいた

 この詩と出合ったのは大阪文学学校に入学して、チューターの中塚鞠子氏の配った教材のプリントだった。たしか、「詩の題」というテーマだったと記憶している。硝子が割れたことで、駅夫の長年の苦労が解決した。めでたし、めでたしとはならないのだ。これで解決になっているのか。本当の解決といったい何か。この詩を読んで考えさせられた。
 人こそ不透明な存在である。輝いている時があったとしても、それもそう長くは続かないだろう。自分から輝きを隠すことだってある。少し飛躍して、硝子を磨く行為そのものが人生そのものであるとすれば、硝子が割れることは死を意味するのかもしれない。人生を解決させるとは、案外そんなものかもしれない。駅夫が故意に硝子を割ったのだとすれば、これはそれで面白い。この作品はどう解釈されるか。私の頭の中はすでに、暴走をはじめている。この作品の題がもし「煤けた駅」だったら、私はこんなに「解決」という言葉にこだわらなかったと思う。
 それから2年経って、65歳で仕事をやめた。時間はある、だけど今やることがない。杉山平一氏の詩集を落ち着いて読むことが出来た。この作品の印象はまた違っていた。「煤けた彼」という言葉の表現に眼が留まった。なぜ、彼も煤けているのか。駅や硝子こそ煤けていて、彼はそれを毎日せっせと拭いている。それが彼の仕事であり、仕事の倫理観であるはず。ここで、初めて私は今やめたばかりの仕事を振り返ることができた。仕事はその内部に居てこそ、評価もされ、批判もさせる。それは内部の論理である。辞めて、外部から見て、そのおかしさに気付く。明日には又煤けるだろう硝子を今日の仕事として磨く、それが日常の本質だったのだ。その日常である硝子が割れてしまったら、たちまち仕事を失うであろう恐怖。「煤けた彼」とは私自身の弱さだったのだ。
 それから5年、最近はまたこの詩を読んで考えている。時代が、人が逆流を始めている。戦前は遠い存在ではない。戦争という強い力が硝子を割ることだってあるかもしれない。それが唯一の「解決」だという時代だけは絶対にいやだ。この作品は昭和19年戦争の末期に書かれたものだ。時代がこの詩を反戦詩としては育てないでほしいと願っている。

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