僕はちっとも変人ではないんだ (ゴッホの手紙を読む)

 
橋爪さち子

 

         
 

〇固い殻のなかの核のようなもので、にがい果実、それがキリストだ。

 これは、ゴッホが15歳年下の画友ベルナールに宛てた手紙第8信の一行である。

 ゴッホは1890年に37歳で亡くなった。原田マハ著『ゴッホのあしあと』によれば、早くもゴッホの死の20年後の日本で、武者小路実篤や志賀直哉などの文学グループ『白樺派』の誌上でゴッホが紹介されたという。翌1911年には同派よりゴッホの手紙が翻訳され、翌々年には「ゴオホ号」特集が出版されたとある。これら『白樺派』による紹介がきっかけで、日本のゴッホ熱が過熱したのだという。                    

 当時の日本にはゴッホ作品が「ひまわり」一点しかなかったらしく、絵よりオランダ人であるゴッホの、フランス語による弟テオへの652通の手紙や、ベルナールへの22通の手紙などによって、ゴッホに魅せられたファンも少なくなかったようだ。

 事実、ゴッホの手紙本は今なお数社から出されており、66版を重ねる書もあることからも、永く高い評価と支持を得ていることが判る。なぜ、彼の手紙本がそんなに読み継がれるのか。それは、ゴッホの手紙の知識と品性の高さ、豊かな抒情性、そして何よりもどんなに困難で孤独な状況にあろうと、常に前を向き高みを目指そうとする彼の精神力の強さ、加えて手紙に添えられたスケッチ画の楽しさだろう。

 私も彼の手紙本を読むまでは、ゴッホといえば、一時期アルルで同居していたゴーガンとの諍いの末に、自身の耳を切り落としてしまう炎のような激しやすさと、生前、一枚しか絵が売れなかった不幸せな画家という印象しかもっていなかったが、彼の手紙本を読んだとたん、ゴッホの超ファンになってしまった。この稿ではあえて弟テオではなく、画友ベルナールに宛てた手紙の一部を紹介させていただこうと思う。

 

〇僕のからだの調子は北にいたときよりもいい。真昼の太陽の直射を受けて、日かげが少しもない麦畑のなかでも、蝉のように楽しい。(第7信 1888年6月下旬35歳)

 北、パリからアルルへ移った喜びが伝わるようだ。ゴッホは蝉が好きだったらしく、ベルナールも「彼は太陽と、大気と、蝉と天国が好きだった」と記している。

                                            

〇どうにもしようのない事だが、僕はちっとも変人ではないんだ。(略)ドラクロアは思いもよらぬ明るいレモン黄でキリストを描いている。この色の調子と輝きは絵のなかで、摩訶不思議な蒼穹の一隅の星の魅力を持っている。(第12信 1888年7月末)

〇いいかい、ありきたりなもの――は、赦せないよ。(略)間違えてかえって本道を発見するものだ。(略)たとえどんなに油絵が呪うべきものであっても、それが我々の時代には障害でも、職業として選んだからには熱心に稽古すれば、責任感と、固い意志と、節操を重んずる男ということになる。(第21信 1889年12月初め 36歳)

 これは耳切事件のあと、サン・レミー精神病院へ入院した、心身ともにどん底だった時の手紙だが、こんな苦悩のなかでもゴッホは、より高みを目指し、翌年亡くなるまで凄まじい勢いで、今なお世界を魅了する数々の名作を描きつづけた。                       

※ ゴッホの手紙部分は『ゴッホの手紙』岩波文庫・硲伊之助訳による。

 

 

 

 

 

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