日記

 
尾崎まこと

 

         
 

 小学校三年生の絵日記以来、すべての日記は三日坊主になってしまった。書きかけて捨てた日記帳やノートの類の数では、僕はだれにも負けないだろう。そんな根気のない男が、今年の元旦から日記をつけ始め、八月末の今日まで続けている。テレビの通販で売っていた「10年連用日記」という超大型の日記帳に書いている。一冊に10年分を書くために、一日のスペースは100字が限度となり所要時間5分から10分で済ますことができる。お蔭さまというべきか、だから続けられている。

 「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

 吉田兼好の『徒然草』であるが、幸い僕の短い日記の場合「あやしうこそものぐるほしけれ」という気持ちを免れている。あやしくなるには所要時間が短すぎるのだ。しかし、書くという連続性に伴い生じてくる「狂おしさ」は詩人の端くれとして僕にもわかる。それは生き続けるという日々の連続性から発するもの狂おしさから発しているのだろう。日記には、人生の連続性の狂おしさから幾分か救う効用がある。

 詩を書き始めたころ、「孤独」という題でこんな詩を書いた。

 

 裸の王様は/真っ裸の公務が終わると/たった一人の部屋に鍵をかけ窓を閉ざした//王冠を脱いで/そそくさとパンツをはいた//深呼吸をひとつして/誰にも見せない性器のような/日記を書いた

 

 日記の必要十分条件は日記帳の上に日付とその日のお天気を書くことだ。いわば日記を書くとは、人生のとりとめのない連続性に、昨日・今日・明日として読点を打ちながら形を整えることだろう。

 実は、日記を書き続けている間に母を亡くした。彼女は97歳だったので大往生である。その日は〇月〇日、晴れで始まり、いつものように100字で終わっている。

 

       

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