更地にしておく


高丸もと子

 
 

 締め切り厳守に間に合わず絶体絶命というところで目が覚める。ああ、夢でよかったとカーテン越しの柔らかい日差しを受けて時計を見る。と、大変なことを思い出す。今日が締め切りの日だった!ああ、これこそ夢であってほしいと叫ぶ。まるで笑い話だ。

 ある人が私に言った。「とにかく机の上は更地にしておくのです。」と。更地になれば、机の上は広々と使え、新しい設計図も描けるというのだ。その人の仕事量の多さは端からでもわかり、そのてきぱきとした処理に私は尊敬の念を抱いている。「今日のことは今日中に済ませる。瓦礫は置かない。」と。

 古い家が取り壊され更地になったところは、久しぶりに空との対面に深呼吸をしているようで清々しい。風もよく通る。

 よし!「更地にしておく」を目標に、まずは新聞から始めることにした。

 波のように雑多な情報が毎日押し寄せてくる。そこであれもこれもと欲張らず、「ひとつだけ」と決めた。それは、朝刊のコラム欄。哲学者の鷲田清一さんによる「折々のことば」だ。古今東西のさまざまな言葉の紹介があり、その言葉の向こうにある背景や、思索もありで大変面白い。丁度、更地の上に貴重な資材(詩材)を丁寧においていく気分になっていけるのが楽しい。

 2020・1・14にはこんなのが紹介されていた。「住まいは田舎がいい、

 森と日溜りでひと寝入り、飛ぶ鳥、稲と日照り、まだ独りもいいが、家内はいます(森博嗣)」これが何と回文(上から読んでも下から読んでも同音)になっている。ひらがなに直して確かめてみると、濁音も清音もぴったり合っているのにまた驚く。紹介にある出典の『虚空の逆マトリクス』を早速読んでみた。

 7篇からなる短編小説集でその中に「ゲームの国(りりおばさんの事件簿)」にこの回文があった。殺人事件をリリおばさんが解決してくのだが、途中、50余りの回文が登場していく。例えば「友の美しい妻子、苦痛のもと」「かなしみの今朝友と酒のみし仲」など。回文の見事さに驚く。

 「押韻や駄洒落から語呂合わせ、逆さ読み、早口言葉、尻取りまで、言葉で遊べるのは言葉がそもそも何かを別次元にずらすものだから。(略)」と鷲田さんの解説。

 日本語のことば遊びは詩だ。古典に繋がっていく詩だ。

 この記事の欄は小さい窓枠だが、窓を開ければとんでもない広い世界に繋がっていて、言葉の力と面白さに気づかせてくれる。

 雑多になって散らかり気味だった新聞が、丁寧に扱われ他の記事も整理されているのに最近気づく。「更地にしておく」自分に近づいてきているのかもしれない。

 私の更地には、草の種も芽を出し、名もない野花も咲くだろうか。「はなのののはなはなのななあに なずななのはななもないのばな」(谷川俊太郎)と、楽しくことばあそびでもしながら春風も一緒に駆け抜けていくのだろうか。

 「更地にしておく」は心を空っぽにしておくことだったのだ。「心を更地にしておく」「花が咲くのを待って楽しむ」ことだと気づく。

 「置かれた場所で咲きなさい、ではなくて、咲く場所に置きなさいってことなんですね。杉田由次」2020・2・21の折々のことばだ。

 

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