「一日一膳」!


斉藤明典

 

 2020年の初めに「一日一膳」。冗談を!「一日一善」ではないか。特別食いしん坊でなくても、一日に一膳しか食べられないのでは大変だが、ぼくはある本の挿し絵の場面が脳裡に焼きついて離れない。その絵は、小学校低学年位の男の子が机の前に座っていて、前の壁には「一日一膳」と書かれた紙が貼られている。短いコメントが付されており、父親が、「善いことを一日に一つするのはしんどいだろ、だから月に一度でいいからね」と書いてやったものだ。これは以前、「人間形成研究」というゼミで、西田幾多郎の『善の研究』を読んだときに、合わせて取り上げた研究書・解説書の中の一冊に載っていた挿し絵だ。

 西田は彼の哲学研究の初めの著書…日本における最初の哲学書とも言われる…としてこの本を著した。彼はその序で、先ず第二編(実在)と第三編(善)を書いた。第二編で、彼の中心的な哲学思想を述べ、それを基礎に倫理学として見ても良いと言う第三編で「善」を論じ、その冒頭で、「人間は何を為すべきか」、「善とは如何なるものか」と提題する。

 「善」とは何かと改めて問われると、うーんと考えてしまう。業・輪廻に結び付いたインドおよび仏教思想、中国の天啓に照らす思想、そしてギリシア哲学、キリスト教思想と多様な考えがある。ここでは西洋哲学の原点とも言われるプラトン(『国家』)を紐解いてみよう。彼は、国家の指導者となる者が学ぶべき最大のものとして「善」を挙げている。かいつまんでみると、それは「正義」よりもっと重大なもの、世間では「快楽のこと」だと思っている人もいる一方、「智恵のこと」だと思っている人もいて意見の違いが大きく、多くの論争がある。そして太陽を譬えにとり、太陽は我々の視覚…目に見える世界の認識…の根拠を与えてくれるものであり、(眼に見えない)魂に知性を与えてくれるものであるが、その太陽はあくまで「善」の子どもである。そうして「認識」と「真理」はこんなにも美しいものであるが、「善」はこれらよりもさらに美しいものであると語り、「善」の実相こそは、すべての正しく美しいものを生み出す原因にほかならないという結論に至る。西田も著書の中で「善」とは、「理に従うことであるとする論者もいれば」、「一種の快楽または満足を与えることとする論者もいる」として「善」はこういうものであると断定をしていない。(この部分、西田は直接触れていないが、プラトンを念頭においていることは明らかだ。)

 こうして考えていると、「善」とは、「正義」とか「真理」、「認識」といった角切りのさつまいもをふわーっと柔らかく包んで作り上げた鬼饅頭の小麦粉のようなものに見えてきた。

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