追悼・長谷川龍生さん


松村信人

 

 8月20日肺炎のため逝去、91歳だった。その第1報は白金台で編集プロダクションを経営するM女史からもたらされた。龍生さんを詩の師匠と仰ぎ、仲人をも引き受けてもらい、かつ仕事上でも助言を得ていたまさに大恩人と感じている人である。龍生さんの晩年の様子は彼女から詳しく聞くことができた。そのころにはネット上でも訃報は流れていたが、追って何人かの詩の仲間からも逝去を悼むメールが届くようになった。
 その後も各新聞での記事に続き、「現代詩手帖」などの雑誌でも特集記事が組まれ、11月23日には大阪文学学校で「長谷川龍生さんを偲ぶ会」が催され、さらに12月21日には神戸で「長谷川龍生追悼シンポジウム」が開かれる予定である。当然住まいのある東京でも追悼会があると聞いている。私はあいにく大阪の方は所用が重なり出席できていないが、神戸には参加することにしている。関西詩人協会運営委員会がこの日と重なり悩むことになったが、龍生さんとのお別れを選ぶことにした。
 そもそも私が龍生さんと面識を得たのは『小野十三郎の二日間 橋本照高写真集』(1999年発行)がきっかけだった。構成・解説の倉橋健一さんから当時大阪文学学校の2代目校長だった長谷川龍生さんを紹介していただいた。(ちなみにこの本の表紙カバーの小野さんの写真がその後の偲ぶ会や小野賞授賞式で使用される額入り写真となった)。その時は形ばかりの挨拶終わったが、何回目かの小野賞授賞式後に当時大阪で編集プロダクションを起こしていたM女史から改めて龍生さんを紹介され、懇親会を抜け出して3人で飲みに行き、以来親しくさせていただくこととなった。
 今から15〜16年ほど前、バブル崩壊後の景気が持ち直しかけたころだったが、私は月に一度六本木プリンスホテルで芸能人、政治家秘書、実業家(主にIT関係)らの無尽講に参加のため上京していた。会の始まる夕刻までの昼間、時間が合えば龍生さんと渋谷駅近くのレストランで会う事にしていた。小野十三郎、関根弘、秋山清らの話から始まって文学学校のユニークな生徒、納棺夫の青木某氏など話はどんどん広がっていく。宮内庁や防衛庁にも人脈があった。私は龍生さんが広告業界で活躍されていたことを思い出した。東急沿線の駅名を名付けた話や新聞、雑誌などの様々なメディアで多岐にわたって批評を書かれていたことを……。
 ある時「古式文化を伝える会」なるものをやらないかと声をかけられた。手書きの企画書を示され、折角東京まで定期的に出てきているのだから、面白い雑誌をやろうと。全国各地に古くから伝わる風習や儀式、あるいは北海道で滅ぼされてしまった縄文人(小人族)に関する取材等、話は尽きなかった。さすが若かりし頃、元祖フーテンと呼ばれ、放浪癖がため30以上もの職を転々としながら全国を旅してまわったという伝説通りの人、話題には事欠かなかった。
 いずれにしても資金集めも必要になる。私は無尽講の仲間に誘いをかけたが、彼らは遊びやお金儲けには興味があったが、文化面には極めて関心が低かった。龍生さんからは急ぐ必要もないので、資料集めなどをゆっくりやろうとたしなめられたが、そうこうしているうちに痛風だ、腰痛だと体調を崩され出会える機会が少なくなっていった。さらに数年続いた無尽講も区切りのいいところでの解散となってしまった。
 龍生さんとは長年の付き合いのある倉橋健一さんがしきりと言っていたことだが、彼にはきちんとした評論集がないので作ってみてはどうか。広告批評は特に優れていたから、絶対に出すべきだ、と。私は全面的に乗り気でいたのだが、当時の掲載原稿の収集方法が見つからないでいた。しかもなかなか連絡もつかなくなっていた。そしてその結末がこれだ。それにしても惜しむらくは、「古式文化を伝える会」の継続と『広告批評集』の刊行。(合掌)

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