「五十音図」の世界
                            吉田定一



 五十のそれぞれの違った「音」だけで成り立っている「五十音図」の日本語の世界に、何故に惹かれる。「音」だけがあって、音の連なりに音調が生まれても「意味」があるわけではない。現代は総じて意味を求め過ぎてはいないか。一億総コメンテーターの時代、「意味という病」(柄谷行人)からまだ抜け出してはいない。
 ある時、「五十音図」を子どもたちと読みながら、各行に音の表情を読み取っている子どもたちに驚いたことがあった。「カキクケコ、あおいかきをたべているみたいにかたいね」「サシスセソ、サーサーって、かぜみたい。シーシーって、ないしょばなしだから、おおきなこえでいえないよ」「ハヒフヘホ、いきがぬけてゆく、つかれたときみたいだね。ハッハッハ、ヒヒヒッ、フフフ……、わらいのおとだ」。
 最近、新聞のコラム欄で、左記と同じ思いに触れた。「大阪は音楽の町なんですね。だって、ドで始まり、ドで終わる。東京のタクシードライバー車の中で町名の話になった。難波(なんば)、船場など大阪の町名は濁音のものが多い。なかでも淀屋橋、道頓堀、堂島、道(ど)修(しょう)町(まち)と「ド」の音が際立つと私が言うと、すかさずこう切り返した。音楽の話にもっていくところが凄(すご)い。京都を「はひふへほ」、大阪を「ばびぶべぼ」、神戸を「パピプペポ」と表現した雑誌編集者もいた。音調が三都の気風をぴたり伝える。他の都市も音で知りたい。」(朝日新聞「折々のことば 鷲田清一」123)。
 「ん!」(なるほど)。気息を鼻から漏らして優しく頷き納得する「ん」。その頷き顔が美しい。「五十音図」や「いろは歌」の仲間から一人ぽつんと食み出しつつも、鼻音の一音でなにもかもを語り尽くす「ん」の豊かさに、饒舌とはもっとも遠い沈黙の丘にひとを佇ませる――。



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