四年目の石巻
                            神田さよ



                           

                 

                   

 一月十七日に神戸の震災二十年目の集まりに参加したり、所属団体から震災二十周年の詩の記念号を出し、二十年の区切りに思いを馳せた。やはり、区切りに立ち会うことは、自身にとっての区切りになると思い、震災四年目を迎える東北を訪れる。一番初めに来た被災地は石巻だったので、この節目に原点に戻ろうと、再び石巻に行くことにする。

 三月十日夜、仙台に着く。翌朝、ホテルの窓には粉雪が舞い、道路はうっすらと雪が積もっているのが見える。仙台駅前の歩道橋のベンチに布団のように雪が覆っている。石巻へ向かうために、午前七時四十六分仙台発の東北本線に乗り、小牛田(こごた)駅で石巻線に乗り換え。石巻線の列車石ノ森章太郎作のアニメの主人公外側描かれてい列車にはこの日に合わせてやってきた、僧侶、リュックを背負った旅行者などが見受けられた。

 これまでに二〇一一年十一月と二〇一四年三月に石巻を訪れた。今日で三回目となる。三回とも石巻観光タクシーの佐藤さんに案内をお願いする。石巻駅で落ち合う。

「遠いところを」

「こちらこそ、申し訳ないです」

 被災された方と遠くからやって来た者との間はなかなか埋められない。

 一回目、二回目の時と同じルートを車で巡る。旧北上川沿岸は、津波が家や車を押しあげながら遡上し、沿岸近くの家々は流された。川の中洲(中瀬(なかせ))に丸い宇宙船のような形の「石ノ森萬画館」が見えてくる。中瀬と湊地区を結ぶ内海橋の架け替え工事が行われていた。昨年月着工二〇一七年度末には完成予定。現在の橋より少し上流に架けられる。現在の橋は津波を被り損傷を受けたが、車が激しく行き来する。少しがたがたとするが、橋は、人びとには重要な役目かり、一生懸命耐えている。この橋は歩行用に残される。

 「石ノ森萬画館」は、窓ガラスがピカピカに磨かれ、震災の年に来た時の、泥だらけの宇宙船とは全く異なる。震災の日、萬画館の職員は内海橋に取り残された人びとや、濁流に流されて来た人びとを館内に避難させた。四十名近くの人が五日間ここで過ごした。

 萬画館の前に建っていた「ハリストス正教会教会堂」は日本最古の木造教会だ。津波に耐えて残ったのだが、やはり損傷があるとのことで、解体して、改めて組み、建て直すことになったので、見受けられない。二〇一七年に完成するそうだ。そのため、萬画館だけがぽつんと残っている。これから中瀬は整地され、公園として甦るそうだ。

 その後、日和山に行く。山と言っても、高さ六十メートルほどの丘陵といってよい。この日は、黙祷や取材でたくさんの人が集まるので、車は乗入れられない。屋台の準備も見られる。震災の年に来た時の、この日和山からの景観を思い出す。家の土台だけが残されたところに、びしょびしょと海水が流れ込んでいる。何ヶ所かに集められた瓦礫が、山のように積まれている。最初は田んぼかと思った。しかし、家が流された跡と気が付いた時、衝撃が私を襲った。なんと呑気な、と自分に呆れる。綺麗に片付いているが、その時の惨状はなかなか想像できない。あとから、佐藤さんから震災の記録集をいただいて、写真を見てやっと状況が掴めたのだった。

 この日和山に駆け上がって、助かった多くの命があることを思い、日和山鹿島御児神社に手を合わせる。ここからは海が一望でき、江戸時代は、千石船が出るときの日和を見る場所であった。その頃、石巻は大変栄え、『奥の細道』にも芭蕉はその繁栄ぶりを書いている。芭蕉や種田山頭火などの多くの文学碑がここにある。ここで、以前も購入した「キティちゃんお守り」を、孫たちに三個買う。わたしは、涼やかな音の出る「清らか鈴守」を買う。

 日和幼稚園の前を抜け、下へと降りる。カーブにあるミラーはあの日、園児を乗せたバスを映して、下へと走った。ここが、バスの焼けたところと、発見された場所を示される。何度聞いても、胸がつまる。園児の叫びが聞こえるようで、耳を塞ぐ。

 海辺の「がんばろう!石巻」と大きく書かれた横看板の下には、献花台が設けられている。この日に限らず、常に人びとが手を合わせることができる場所である。昨日仙台で買ってきた花を供える。手を合わせていると、急にマイクを持った報道人が駆けて来て、マイクを突き付けた。

「どなたが亡くなられたのですか」

 質問にうろたえる。わたしは、被災地の人間ではないことを、この時つくづく思う。そんな人間になにが分かるのか。とも言われたような気がした。

「では、外からいらして復興をどのように思われますか」

 もうしどろもどろである。なんとか、復興が遅いことを告げた。他のテレビ局は、わたしにもう一度合掌したところを撮影させてくれと言う。こういうのをやらせとまでは言わないけれど、気持ちをこめるのは難しかった。部外者の発言など、きっと放映はされなかっただろう。家族を亡くし、涙を流す被災家族の絵を報道は求めていたと思う。阪神淡路大震災のときのことを思い出す。

 門脇小学校は、震災の日の夜、火災で焼けた。児童三百人あまりと先生たちは無事日和山へ避難した。その後、津波がきて、流されてきた自動車がぶつかりガソリンに火がつき、全焼した。外側だけが残っている。門脇小学校は閉校され、石巻小学校に合併した。震災の年に来た時には、外壁が真っ黒に焦げていた状態だったが、現在はシートが被されている。この建物を保存するかどうか検討中である。校舎の屋上には「すこやかに 育て 心と体」と書かれた標語が掲げられている。

 同じ石巻市内でも、大川小学校の悲劇は報道で伝えられているとおりである。わたしは、大川小学校には行かなかったが、この日、ここでも追悼式が行われた。

 その後、水産加工会社が並ぶ海岸地帯へと行く。前回は仮設の加工工場だったところが、立派な建物に建て替えられている。魚市場が新しく建設中である。全長一キロメートルの、世界一の市場である。震災前は東洋一の魚市場と言われていた。すべてに最新式の技術が投入されている。石巻アットリスクCM(コンストラクション・マネージメント)方式で鹿島建設が請け負っている。屋根付きで、高度衛生管理型施設だそうで、水揚げした魚を、直に置かない、また、市場内の運搬用フォークリフト車もガソリン車ではなく、環境に配慮した電気自動車にするそうだ。二〇一四年八月に一部が先行稼働した。完成は二〇一五年八月である。大型漁船も数多く戻ってきていた。

 石巻は、世界三大漁場の一つである三陸沖の海の資源を、水産加工する産業で多く成り立っている。水産加工に携わる方がたが津波の際に避難する建物も建設されていた。早く水産加工団地の活気が、震災前にもどってほしいものだ。

 それから女川へ向かう。町に入ると、トラックのエンジン音が力強く聞こえてくる。高台を整地しながら、その土を津波で流された沿岸部に運んでかさ上げしている。女川は津波が一番早く到達した町で、女川駅や線路、もちろん家々も全て波にさらわれてしまった。テレビで知ったのだが、女川町は高い防潮堤は作らず、高台に住居、その下に公共施設を作り、津波が来たらともかく、上へ上へ逃げることを一番の共通意識にすることにした。防潮堤建設に何年かかるかわからず、膨大な費用を捻出することを思えば、復興を早めるよいお手本になるのではないか。高台へ上がり、女川町立病院から女川港を見下ろす。津波はこの小高い丘まで到達した。陸に目をやると、女川の駅が新しく出来上がっている。かもめが羽を広げて飛び立つようなデザインだ。現在浦宿駅まで電車は通じているが、この三月十八日に女川まで通じる。かさ上げ工事、駅の完成、徐々に復興は進んでいる。胸が熱くなる。外国の観光客も訪れていた。建物がバタンと倒れたままになっていた鉄筋作りの交番は、倒れたまま保存するそうだ。

 仮設住宅や仮設商店街をその後見学。仮設住宅によっては、かなり老朽化しているところも多い。耐久年数、約二年から四年と聞く。まだまだたくさんの方がたが、根を下ろした生活を心待ちにしている。早く早く住宅を、と心の中で叫ぶ。

 石巻駅で運転手佐藤さんと別れる。

「また、海の公園もできて、きれいになったら来てください」

 「きれいに」という言葉がまぶしかった。「絶対、来ます」と心の中で言う。

 お昼になったので、以前も行った駅前の「富喜鮨」に入る。

「お客さんどこから」

 前にも来たというと、この頃忘れぽっくて覚えていないと店主の奥さんが言う。遠くから来る人は覚えているのかしら。でももう二年前。横で黙って食べているサラリーマン風の若者は、帰り際、息子さんの同級生だと店主に告げた。やはり遠くから来たらしい。

「あ、きょうだから?」

 と奥さんが言うと

「え、まあ」

 とさりげなく店を出た。平日だが、会社を休んだのかと想像する。十四日には天皇陛下が石巻に来訪すると店主が言っていた。

 先日、来日したイギリスのウィリアム王子も見学した、石巻日日新聞のニュース博物館「石巻ニューゼ館」に行く。震災の次の日、三月十二日から十七日まで、電気のない中、懐中電灯を照らしながら、手書きで壁新聞を作り、号外として避難所などに張り出した。それがワシントンポストに記事として掲載され、この壁新聞が世界の注目を集めるようになった。館内にはその壁新聞が六枚展示されている。この「石巻ニューゼ館」は石巻日日新聞創刊百周年記念として、ビルの一階に設けられている。館長の武内宏之氏が説明案内してくれる。新聞ロール紙に手書きで書かれた壁新聞は、その時の息づかいまで伝わってくる。ライフラインの情報、被害の地域、炊き出しの場所などの情報を、できるだけかき集めて書いている。その記者魂に感動する。全国版のメデアでは分からない、地域の人々が知りたいことを知らせること、そのことが当時の被災者に、どれほど大切かよくわかる。阪神淡路大震災のときもそうだった。被災地以外に届ける情報も大切かもしれないが、被災者が今何を求めているかを考え、伝達してくれたことは大きな貢献だと思う。武内氏は、わたしが神戸から来たと言うと、一番最初に物資を持って駆け付けてきてくれたのは、神戸のボランテァの方がただったと、しみじみと語った。

 二時三十分になり、慌てて「石巻ミューゼ館」をあとにする。石巻駅前の市役所建物内での追悼式に参加するためだ。四階の石巻市河北総合センターで献花が行われていた。菊の花を一輪、わたしも献花する。二時四十六分。全員で黙祷。この時間各地で死者への追悼が行われた。

 石巻駅三時十七分発の電車に乗り、仙台へ帰る。帰りは石巻から矢本に出て、代替バスに乗り換え、松島海岸へ。そこから電車に乗り換え仙台へと向かう。代替バスの通る道はまだ、更地が多かったが、長いこと壊れたままだった野蒜駅はきれいに再建され、仙石線全線開通は五月三十日と聞く。

 今回の石巻行きで、東北行きは一つの区切りにしようと思う。石巻の新しい最新式魚市場、女川の復興、仙石線の開通、少し光を見たような気持ちになった。

「きれいになったら また来てください」

その言葉の重さを心に止め、復興の流れを見つめていこうと思う。

 

inserted by FC2 system