河津聖恵さん 講演録 (2011.11.20)

ことばが詩の光を放つ時
    ―具体的な作品に即して―

             

 


「ことばが詩の光を放つ時」というタイトルがスーッと出てきましたのは、震災前の三月五日に和歌山の「田辺市立美術館」で、原勝四郎の展覧会に招かれて、講演をしました時に「原勝四郎が放ち続ける詩の光」というタイトルでしたので、今回もそれにどこか響くものがあったと思います。

 原勝四郎は明治一九年(一八八六年萩原朔太郎と同じ年)に田辺市に生まれ、あまり有名でなかったのですが、数年前に「潮騒の画家」でNHKにとりあげられて、名前が知られるようになりました。原勝四郎は東京芸大に行き途中でフランスへ、船で働きながら留学します。フランスには長谷川潔や藤田嗣治がいました。原勝四郎は無一文でヌードや芝居にも出たりしてパリにいましたが(パリのアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールで学ぶ)経済的、精神的に挫折し、無一文でアルジェリアへ行き砂漠の中で寝たり、農場で働いたりして、一九二一年、三五才で帰国します。

 帰国後も絵を描き続け、四五才で結婚し、一九三一年から白浜に住み続けました。絵は売れましたが貧しく、ダンボールや板に絵を描き、安い値段で分け与え、漁師になるには体力が無いので絵を描き続けました。
 私が田辺に呼ばれましたのは、二○○九年に出した詩集『新鹿(あたしか)』の表紙絵に原勝四郎の「江津良(えづら)の浜」(一九五一年 六三歳)という絵を用いさせていただいたのがきっかけです。
『新鹿』は紀州、熊野についてばかり書いていて、実際に一年間で四回紀州に行き、地元の詩人に案内してもらい、フィールドワークして書き続けました。

 二○○七年の秋に白浜町の倉田昌紀さんから宅急便が来て中には私の詩集や評論集と手紙と小さなお菓子が入っていました。
「自分は河津さんの読者で、本にサインと好きな言葉を書いて送ってほしい」
と書いてありました。びっくりしましたがお菓子も戴いたことだし、言葉と名前を書いて翌日返送しましたら倉田さんからすぐ電話があって非常に喜ばれ、
「是非、紀州熊野へ来て、すばらしい自然を見てほしい」と言われました。翌月、夫と一緒に「くろしお」に乗って行きました。天気がよくて、海は明るく澄んで美しい太平洋で、波に光があたるところはぴちぴちと鰯かトビ魚が飛び跳ねるような、光が生きているような体験をしました。その印象を書いた詩です。

  朗読「鳳仙花のように」

 この詩は引用が多い詩で、「紀は、記であり、木であり、気である」とか「何も表面では起こらない」「土地すれすれに生きて在ること」は中上健次さんの言葉で、「人はいつでも、魂の故郷に向かう一人の薄明の帰省者であり、また永劫の旅人である」は吉増剛造と倉田昌紀の共著『紀州・熊野詩集』のあとがきから引用しました。
 紀州の光がとりわけすばらしく感じたのは私の精神状態もありまして、二○○四年と二○○六年に大きな手術を受け、精神的な落ち込みから回復期にあるときで、それだけに世界が明るく見えたのかと思います。

 原勝四郎が「江津良の浜」を描いたときも回復期であったと思います。私も実際原勝四郎が坐ったところへも行き、海を見て先ず感じたのは、磯と海の対比が非常に美しいことでした。珍しい事にさざ波の化石があって、一面にそんな磯があって、色も黒というより泥が固まったような土の深い色で、海の色も深い。白浜半島の北にあり太陽を背にしているので青が深い。私は見たことはありませんが、直感的に、原勝四郎が放浪したアルジェリアの海に近いのかなと思いました。
 アルジェリアはアフリカの北にあるので、太陽に向かって北にあるのかなと思い、原勝四郎と私と同じ江津良浜にいてアルジェリアの海を思い出しているというように、重なり合うものを感じました。

  朗読「白浜」

「白浜」は詩集『新鹿』の最後に載せている詩です。倉田さんに案内してもらって印象が薄れないうちに一時間ぐらいで書きました。
 倉田さんが「屈託なく紀州の詩を書いて下さい」と言われ、「まだですか」と催促され、うれしいプレッシャーもあり、自ずと言葉も口語になり、日記的、手紙的になりました。それに加えて会話したり読んだりした他者の言葉に自分の言葉が応答するようになって、中上健次の言葉も引用しています。普通の会話も詩の中にダイレクトに入ってきました。

 熊野の自然に感動し自分の言葉が出て来て、自然の側もそれに応えてくるようでした。倉田さんも、
「自然に触れて下さい、川に行けば水に触れ、洞があればそのなかに入って下さい」と。今までは机上で書き、自分中心の言葉で書いていましたが、事物が生きていると実感することで言葉が生きてくる、言葉が事物の中から出てくると感じました。
『新鹿』の前の『神は外せないイヤホンを』では、朝の一〜二時間で三五行位の短い詩を書き、三十日間書きためました。多くは時事的なものを書きましたが、自分の危機感を解放しようとして書き始めた詩集で、やっぱり詩を書くことで、危機を乗り越えるしかないと実感しました。

『新鹿』の後に出した『龍神』『ハッキョへの坂』も『新鹿』のように外部に触発されて書きました。
 自分にとっては全く知らない非日常的な外部によって言葉が自然に出てきた、そういう触発によって書くというスタンスを、共通して引き継いでいるのかなと思います。

 最後になりましたが、詩の光とは何かということです。私の詩が散文的になったと言いましたが、改めて読むと、所々で比喩があります。私は今まで暗喩が多かったのですが、この詩集ではたいていは直喩になっています。何々のようにと素直な直喩が散文的な詩の中にちらちらと出てきます。直喩というのは例えられるものの形をあざやかに引き立たせるものだと思うのです。それも自然に引き出されてきました。先にも言いましたように海がちらちら光っている=小さな魚が飛び跳ねているというような比喩が入ってきています。

このように自然に比喩が出てきました。震災の後は私も詩を書くのに非常に難儀して、とりわけ外部によって引き出されて書いている場合は震災のような外部が壊されてしまうと言葉が出て来ない。詩は無力、詩は無い、比喩は死んでしまったという論調が多かったのですが、やはり私も皆さんもそうだと思うのですが、詩は諦めきれないと思います。詩は大事で、書かねばならないと思います。

 壊れてしまった外部を比喩によって、その比喩も古いものとか神話とか宇宙にまで達することによって出来事や事物を対比させることが大切です。比喩によって今までのものを甦らせることです。時間もなくなりましたが、詩の光というのはつまり比喩なんだ、結論的に言いますと詩というのは比喩なんだと思います。       (文責  名古きよえ)

 




 

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