第一回【貸し切りバスで行く】文学ツアー 飛鳥・万葉の旅

2011年5月29日(日曜日)
主催:関西詩人協会
天王寺ゲート前集合
レポート:永井ますみ
 大型の台風2号の中心が沖縄へ来ているという状況になってしまったが、以前からの計画であった上記のイベントは行われた。
来られる予定の人は全て参加して総勢23名。大型バスには少し足りなくてもったいない感じはしたが、ゆったりと座っていけた。
予定通り、奈良県立万葉文化館に到着すると、開館のチャイムがなっている。雨天の中、私たち以外にも足を運ぶ人ばぼつぼつ見られた。
まず、大きな部屋に入って、井上さやか主任研究員のお話が、50分ばかりあった。
万葉集のお話を聴く

*『万葉集』と『小倉百人一首』の共通点について

 例 【万葉集】春過ぎて夏来(きた)るらし白栲の衣乾したり天香具山 (持統天皇) 
   【新古今和歌集】春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
  新古今和歌集の場合、平安朝の訓読にそって読み替えられたようだ。

*クイズのような和歌

  1. 万葉集の文字で書かれたものをどう読むか? 例1:過 来良思 朝烏指 滓鹿能山尓 霞軽引((ふゆ)すぎて きたるらし あさひさす かすがのやまに かすみたなびく)(作者不詳 11 一八四四)
  2. 若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在国(わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてん にくくあらなくに)(作者未詳 11 二五四二)
  3. …毎見 恋者雖益 色二山上復有山者 一可知美…(…みるごとに こいはまされど いろにいでば ひとしりぬべし…)(笠朝臣金村之歌中9一七八七)
解説A:寒と書いて冬(ふゆ)と読みます。暖と書いて春(はる)と読みます。朝烏とかいて、あさひと読みます。烏はかの神武東征の際の案内者といえる八咫烏(やたがらす)を指し、太陽神の使いなので太陽=ひなのです。かすが=滓などという字を宛てていいのかとも思いますが、意味ではなく音を重視しています。

解説B:夜をやへだてん=毎夜通います=通い婚なので、こう宣言する。二八十一は九九=八十一という掛け算九九のことです。「にくく」と読んで、他の万葉集の部分でも使われています。

解説C:「山の上にまた山あり」と訓読できる漢文で、山の字の上にまた山を重ねて書けば「出」という字になるのでこういう使い方をしています。


 ずっと万葉仮名から平仮名が出来て、漢字の一部からカタカナが作られたと習ったので、万葉仮名はすべて一字一音で出来ているのかと考え違いをしていた。聞いてビックリ。まるでクイズのような使い方もしているのだと認識を新たにした。
 また、この時代の結婚の形式は通い婚で、名前を名乗ることが通ってくることをOKした事になる。また、女には姓名を名乗る事はなくて誰々の娘、誰々の夫人という形で男がリードしていた。というのも知っていた。この形式は夜這いなどという形で、昭和の御世までずっと続いていたのだから。しかし、男の来ない日には他の男が通っていたのじゃないかと想像を逞しくしたりして聞いた。
(永井感想)
 

*地理を理解して歌の面白さが倍増しますというお話。

  1. 天皇(すめらみこと・天武天皇)の藤原夫人(ふじわらのぶにん)に賜へる御歌一首「わが里に大雪降れり大原の古りにし里に落(ふ)らまくは後(2 一〇三)・・・・・・今の宮処(みやこ)飛鳥に豊年を予祝する大雪が降ったが、田舎びたあなたの住む大原にはこの後に降るでしょう。・・・・・藤原夫人の和(こた)へ奉れる歌一首「わが岡のおかみ=水神)に言ひて落らしめし雪の摧(くだ)けし其処に散りけむ」(2 一〇四)・・・・・私が水神に頼んで降らせた雪のお余りがそちらへも降ったのでしょう                                                                                          
    解説 このように大事のやりとりのようであるが、天皇の住まいする飛鳥浄御原宮と藤原夫人の住まいの大原(明日香村小原)は目と鼻の先である。        
                                        
  2. 壬申の年(672)の乱の平定せし以後(のち)の歌二首
  • 大君は神にし坐(ま)せば赤駒の匍匐(はらば)田居を都となしつ・・・大将軍贈右大臣大伴卿(まえつきみ)の歌(19 四二六〇)
  • 大君は神にし座(ま)せば水鳥のすだく水沼(みぬま)を都となしつ・・・・作者はいまだ詳らかならず(19 四二六一)           
解説この二首はよく似ている。どちらも律令制を成し遂げた天皇を崇拝している。
参考
 天皇(すめらみこと)の雷岳(いかづちのをか)に出遊(いでま)しし時に、柿本朝臣人麻呂(かきのもとあそんひとまろ)の作れる歌一首「大君は神にし座(ま)せば天雲の雷の上に廬(いほ)らせるかも(3 二三五)   
 3. 明日香宮より藤原宮に遷居(うつ)りし後に、志貴皇子(しきのみこ)の作りませる御歌
   采女の袖吹きかへす明日香風(あすかかぜ)都を遠みいたづらに吹く(1 五一)
解説明日香の宮から中国式の律令制を取り入れ、中央集権化がはっきり示された藤原京へ移る事は時代の隔たりをすごく感じさせる事であったと思う。距離的にはさほど離れている訳ではないのだが。

この後、館内を見学

 この建物の建築のために掘ったところ、工房跡がみつかり、飛鳥池工房遺跡と名付けられました。新しい建物を他へ移すという議論もなされましたが、結局埋め戻して4メートル土盛りをした後に工房跡を復元し、発掘された遺物を展示する結論となったようです。
 ここでは炉、鞴、玉を作るための粘土板、坩堝などが発掘されていて、7世紀後半〜8世紀初め、金・銀・漆・ガラス製品が作られていました。日本最古の銅銭「冨本銭」の鋳造も行われていたそうです。枝銭の形でも出土しています。

 地下の生活空間のコーナー。左では果物や野菜を売っている。現代観客として関西詩人協会の詩人たちも馴染んでますねぇ。その他に、楽器を鳴らしたりして若者が集まった歌垣の様子を模したものもあった。右のは糸や布を売っている商品の模型。なにしろ見るのに一生懸命で写真が少ない(永井・反省)

酒船亭で昼食
王族でも一度にこんなご馳走は食べられなかったでしょうというご馳走でした。
赤いのは赤飯ではなくて赤米か。私は大豆と海苔の煮たのが気に入って
お土産に一袋買って帰りました。
散策に出かける前に集合写真。
例によって私が撮影したので、写っておりません。
戸外の見学に出ようとすると雨が……

涌水施設と亀形・小判形石製品

 ボランティアガイドの廣田仁吉さんは80歳余といわれたが、雨の中を颯爽と歩き、この地の解説をされた。
 皆の視野の先にあるのが左のもので、樋が掛けてある石囲いの中からの湧き水を誘導して、小判形石造物、亀形石造物と言われているものへ流れる。
 もっと左には石敷きの階段状のものがあって、何らかの祭祀空間であると案内書には書いてある。斉明天皇が作られた施設で、階段の先になんらかの施設があったのではないか、また入ってきた方向には柱穴跡があったので、更衣などの施設があったと思われる。


背後の山の上には酒船石という大きな石があるそうだが、雨脚が強くなってきて、足元も悪いので登ることを止めた。残念。


大伴の夫人の墓 飛鳥寺西門跡から 飛鳥坐(あすかにいます)神社
大伴夫人は中臣鎌足の母、中臣御食子(なかとみのみけこ)の妻となって鎌足を生んだ。
 この周辺が先の歌「わが岡のおかみ=水神)に言ひて落らしめし雪の摧(くだ)けし其処に散りけむ」の舞台の大原(明日香村小原)という。
蘇我馬子が発願して立てられた日本最古の寺である。昭和31年の発掘調査により塔、金堂などを有する本格的建築様式の寺院であった。本尊飛鳥大仏は止利仏師による日本最古の仏像である。たび重なる火災などにも遭われたが、ずっとこの地に坐しておられるという案内人の方の話に感じ入った。 結構、雨のしぶく中を参拝する仲間たち。
私は数人の人たちと下の東屋で休憩していた。飛鳥坐神社はおんだ祭という奇祭で有名だが、勿論この日は平日で「イヤらしいもん、いや、ええもん見せてもろたわ」という人々の言葉に
行かなかった事を残念がった私であった。

一旦「万葉文化館」へ帰って、お茶を飲むやらお喋りするやら・・・・。私は同時に展示されていた「安野光雅・日本のふるさと奈良」という水彩画展をみる。これが展示点数が無茶苦茶多かった。走って観て、勿体ないことをした。

三時頃にバスに乗って最終見学地の石舞台へバスで移動する

石舞台
石舞台は巨石を使った方形墳。七世紀初めの築造とされ、蘇我馬子の墓という説が有力。

バスで待っている人は待っていてといいながら、殆どの人がこの板の階段を登った。
雨が霧になって荘厳な雰囲気であった。
この石の下は(墓なので)空間になっていて、一人のおじさんが座っていた。解説ボランティアの人だった。
この大きな石は三キロくらい離れた多武峰の麓から、修羅によって運ばれてきた。(修羅の力は偉大だ。今は近つ飛鳥博物館に常設展示してある。石棺はカケラが出てその材質から二上山の凝灰岩であるという話。盗掘にあって殆どのものが無くなっていたが、羨道から土器が少し出たということだった。
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