講演「立ち上がる言葉、生き残る詩」 アーサービナードさんのお話



 去年、京都でおしゃべりする機会があって、その時仲よくなった友達に教えてもらったのですが、京都弁の基本的な東京ことばと決定的に違うところとして「布団を着る」ということばを教えてくれたのですね布団着て寝たる姿や東山をね。それから「お母さんが『ちゃんと布団を着てねんと風邪ひくえ』と子供たちに言う」と話が気に入って、わが家では「ちゃんと布団着てねんと風邪ひくえ」という言葉だけが流行りました。妻も二人とも詩人なので生活が不規則なのです。畳の上で行き倒れみたいになっていて、しょっちゅう妻に京都弁で「ちゃんと布団を着てねんと風邪ひくえ」と言われてます。
 徹夜してあるいは頑張って徹夜しようとすると「徹夜できたらもっといっぱい仕事ができるのにな」とつい考えちゃう。毎日毎日睡眠とらずに生活できたらほんと色んな生活が順調にまわるかなと考えちゃう。 自分だけでなく他の人にも広げて、皆が眠らなかったらどうなるかと考えていて、そのことをある時、詩にしたんです。


詩「ねむらないですむのなら」朗読。


 多分、睡眠を必要としない体になってしまったら、ますます今行われていることが加速して、加速するれば地球を住めない惑星にする流れが速くなって、絶滅の方へもっと速いペースで入って行くような気がする。この詩を書き出した時には「僕らは永遠の眠りについたろう」と決めつけていたわけではなく、書きながら違う出口があったらそちらへ行きたいなと、非常口のような終わり方を探していたけれど、こんな暗い縁起でもない詩になっちゃったんですね。
 この詩を発表する時に編集者と食い違ったところがあって「海も放射能のスープと化して」というところ、これが必要なのかと言われました。僕はこの詩のなかで一番削ってはダメだというところだったんですが、そこで議論になって、でも僕が勝ったんですね。じゃあ、なぜこれを削ったらいけないのかというと、(二行削って朗読)この詩が地球温暖化、いわゆる自然破壊をなんとかしなきゃと訴えている詩になりますね。場合によっては電力会社のPRに利用される可能性もなくはないですね。まあ、電力会社は詩集『釣り上げては』に高速増殖炉もんじゅのあほらしさを書いた詩が入っていて、その頃から嫌われているだろうけど。でも、この詩に「放射能のスープと化して」が入ってないと、CO2による温暖化問題を書いている詩に解釈ができちゃう。電力会社がでっちあげた「原発はCO2を出さないからクリーンエネルギーだ」という90年代から繰りひろげられた詐欺大作戦に利用される可能性があります。でもこれが入っていると、電力会社は絶対触らない。この詩集が絶版になって消え去ることを望むことになる。作者の手から離れると、どう読まれるか使われるか解釈されるか、コントロールできない。だから書き手として自分の作品が誤解がないように悪用されないように作品自体に本質的な表現を盛り込む必要がある。この詩の場合は「放射能の・・・」のところです。このタイトルだけで東京電力のコマーシャルに使われないと決定しています。


 2008年にまとめたもう一篇の詩「ウラン235」朗読
この詩を『ゴミの日』という詩集にいれるときも編集者がジョークで「これ入れると嫌われるね」と言われたけれど、ジョークとしてもオカシイですね。「ウラン235」というタイトルをつけたのですが、何故かというと、そこに広島と長崎と福島あるいは敦賀、島根、三方,玄海を繋げるものだからです。今、日本語で原子力あるいは第二次世界大戦の原爆投下を語ろうとすると、それにまつわる言葉のなかに正式名称や通称の中に、嘘がいっぱい組み込まれていて、原子炉を説明しようとしてもなかなかできない。新聞などで情報が客観的に見えるかもしれないけども、どれをとってみても核の問題に関することは、その正式名称のなかにインチキが入っていて、事実を歪曲している。「ウラン235」という言葉は客観性をもっていますけど、これがジルコニウムの筒の中にいれられて、原子炉に装填されると「核燃料」という名前に変わります。燃料ではないのに核の平和利用のPR活動の中ででっち上げられたのです。ウラン235は燃えない。核分裂と燃焼は違う。しかし、燃料と言った方が皆さんに売り込みやすいだけです。広島の原爆に入っていたのもこれ、福島第一原発に入っていたのもこれ、「核分裂生成物」が正しい呼び名です。燃料としたのは売り込む時にでっち上げられた。燃料ではない。
 英語では(nuclear fuel)ですが、これを原子炉に入れて一年間ジリジリ焼くとウラン235が核分裂して、もっとイッパイ手ごわい核物質が作られます。セシウム137とかストロンチウムとか今僕らが毎日食べてますね。239のプルトニウムとかいっぱい作られた後、原子炉を止めて抜きますね。「核燃料棒」をどう呼ぶかというと「使用済み燃料」ね。これはもっと凄い。これは詩人として吐き気しながら感心する。これは使用済みではない、これからだ核兵器を作る場合は。核兵器を作る原料がやっと出来上がった。それを使用済み!これからだぞ使用はと言いたい。
 新聞でも本でもテレビでも普通に「使用済み燃料」って呼ばれている。まっかな嘘が組み込まれているんです正式名称として。それを見抜いてないと、言葉で詩を作ろうとしても、その言葉を自分で解剖して腹黒いなと分かってないと読者に本質が伝わる詩にならない。福島で起きていることによって、よりはっきりあぶり出され、分かりやすくなっている。でもこいうことが言語のなかに詐欺が組み込まれているという現状は何も3・11の前と変わらない。昔からやってきた事ではあるけれど核の時代に入ってからその傾向が顕著になって、今は日常的に使っていることばがそうなっている。
 日本語を覚えて日本語で世界を見ることによって、現実と言葉のずれが分かり、日本語と英語を行ったり来たりするなかでそれがあぶり出され、掘り下げていくとインチキが見つかることがあって、自分にとっては日本語と英語の眼鏡を掛け替えて発見できたので、日本語をもって良かったと思うのです。
 詩人の仕事としては、嘘を見抜いたうえでどうするかだ。僕の来日のタイミングと重なったから、よけい驚くような言葉のずれが見つかったのが湾岸戦争です。1990年ブッシュのとっちゃんです。僕は日本語学校に入って日本語で詩が書きたいなと思ってました。イラクがクエートに侵攻!フセインが戦争を始めた!そこで新聞の見出しに登場したのが「勃発」だったのです。これ「勃発」と「勃起」の同じ「勃」だったのです。忘れられない衝撃でした。漢字を見ると並んでいたのです。戦争をやりたがる男。その言葉を英語で言うと「break out」何か破裂するような、バクハツするような感じで始まる。それが「勃発」となると、もっと閉まったひとつのユニットのような感じを受けて印象深かった。どの辞書を引いても戦争と関連づけられている。
 それで考えだしたの。実際、戦争というのは勃発するのか?英語で考えていたときは気づいていなかったけど、戦争は勃発するものではない、と気づいた。戦争とはよく見ると急に始まるものではない、戦争するためには経済界と権力者と国民をどうごまかすかを、長期計画でじっくり堂々と長いスパンでやっている。近代以降勃発した戦争は一つもない。勃発するのは鎌倉時代まで遡らないとないのじゃないかな。刀だったらありうる。いざ鎌倉!百姓一揆!ありうる。近代化以降はありえない。僕はそれを見抜いて、何年もガミガミ周りには言っていた。それに対して作品でその事を振り返るところまでしてなかった。詩人としてやってないという事にさえ気づいてなかった。
 イタリアのジャンニ・ロダーリの童話に、『ベルの鐘の戦争』フランスのベフが絵を描いた絵本が送られてきました。イタリア語で勃発のことを「エスカピア」という表現があって、それを嘘くさいと思って彼はこの絵本を作ったのですね。


絵本『キンコンカン戦争』朗読


 終行「平和勃発のお祭りさ」ロダーリがこの絵本で追求した平和勃発の可能性。戦争勃発の嘘を見抜いて見事な物語作品を作って「平和勃発」ということばに命を吹き込んだ。そうすると「戦争勃発」の嘘に気づく。僕が翻訳を頼まれたときにどうして自分が最初に書かなかったのかなと思った。イタリア人が物語を作って、フランス人が絵を描いてアメリカ人が日本語に翻訳したのは初めてですね。講談社が出してくれたのだけど、編集者に見せたら「平和勃発って面白いね」と言ってくれたのですが、編集は一人でするのではなくて児童書の部署では、思考がほぼ止まっている定年近いエライ男性がいたりするのね。その人のコメントが来たのです。それに「日本語では戦争勃発という表現はありますが、平和勃発とは言いませんので、日本語としては正しくありません」その通りですね。日本語を使っている人の99%が思考停止になっていて脳みそが腐ってて、戦争勃発と現実は大きくズレているのに、平気で鈍感に使っているのが現状ですね。思考停止の腐った脳みその人に合わせるべきか、立ち止まっている思考回路に命の刺激を与えて、その脳みそをもう一回甦らせるような作品を作るべきか、そこなんですね。でも、結局僕は「海は放射能のスウプと化して」の時と同じように「絶対譲れない、これはこの作品のヘソだ。」と主張して、粘って勝ったんですけど。詩を書く人間も常にそういう問題を抱えて創作することになるのですね。読者に全部新しくて、全部常識を覆すことや、怠けている思考回路を刺激するような濃密な作品を手渡そうとすると誰も読まないですね。現代詩が難解だと言われているのはそれもひとつ関係しているのかも知れませんね。尤も、難解な現代詩、思考回路の刺激用のとしても、佳いと思う詩はめったに無いですよ。現代詩が難解なのは読者を刺激しようとしてじゃない。
 でも頑張って全部新しく、全部常識を覆そうとすると読者がついて来ない。難しすぎて何を言ってんだか分からないという事になるんですね。だから物語や歌のなかで、一番新しい命を吹き込むべき場所を作り手が感じて、その題材と相談しながらヘソの部分を読者に手渡すのです。欲張って全部新しく、全部斬新なものにしようとすると、読者に何も伝わらない。ロダーリがこういう物語で戦争勃発の意識をやってくれたということは、僕にとっては創作するとは、何に迫っていくといいのかということを示してくれたような気がします。


 ウラン235の話のところで、多くの核に纏わる言葉に多くの認識が含まれていることを話したんですが、僕は第五福竜丸の水爆実験に遭遇した23人の乗組員の物語を作るときに気がついたんですね。
 僕が生まれるちょっと前に(1966年)アメリカのミシガン州デトロイトのフェルミニ原発が部分的なメルトダウンをして、住んでいた父母が避難をするかどうかという危機があった。それが70年代に明らかになった。ずっと原発事故とは隣り合わせで暮らしていて、僕が日本に来てから、母の家から30キロぐらいの処にあるオハイオ州のデービスべッセ原発では2002年にメルトダウン寸前までいったりしました。だから原発のヤバさや違憲のカラクリは見て育ったつもりだったんですけど。核兵器と核燃料がどう繋がっているか、平和利用と言う言葉がどこから出てきたかをちゃんと理解してなくちゃ。
 ベンシャーンという画家は1960年代から多くの物語を残しているのですが、ベンシャーンの絵と僕の文章で絵本を作ることになった。僕はベンシャーンの絵の力に負けない物語を書かなきゃいけないので、色々調べました。第五福竜丸は1954年3月1日の核実験に遭遇したんですね。その頃日本で何が起きていたか、アメリカ政府は何を起こしたかの背景を理解しなければ、物語を書くことはできない。第五福竜丸の事件は23人の乗組員がマーシャル諸島の近く、といっても100キロ以上離れているのだけど、その南の海でハエナワでマグロを捕っていて、3月1日の未明に西の空に太陽が昇る現象を見たのです。それが化け物の太陽で、アメリカ国防総省がビキニ環礁で行った水爆実験だったんですね。それは広島に落とされた原爆の1000発の威力のあるものだった。それを見た久保山愛吉という船長はそれを核実験と察知た。見つかったら証拠隠滅のために米軍に消されると分かっていて、死の灰を浴びながら内部被曝しながら2週間掛けて焼津港へ帰還した。これが第五福竜丸の事件です。
 日本で初めて原発予算が組まれたのは同じ1954年です、正力松太郎、中曽根康弘たちが作った予算の金額はいくらでしょう?
(会場から)235億・・・23億5千万・・・・
 そうそう、2億3千500万円です。今の金額からいうと大したことないけど当時では通産省でとても使えない金額です、というか何をするかまだ決まってなかった。それがどこから出てきたかというとその前の年の1953年の12月8日に「Atoms for Peace」日本語にしたら「原子力平和利用」というアイゼンハワー大統領の演説があった。今までは原子力といったら原爆だった。戦争の道具、脅しの道具として作ってきた原爆を平和の為に利用するという、昔の人達が刀を鍬や鋤に作り替えたように核を平和のために作り替えますという演説だった。見事なものだったですよ。現実とは違って全くのペテンなんですけど、聖書からの引用などを巧みにして素晴らしいものでした。勿論、それだけではなくて、ディズニーや記念切手やマスコミも使って大々的に売り込み世紀の詐欺といってもいいくらい規模も大きかったし影響も大きかった。それを受けて中曽根さんたちが動き出したんですね。
 これが12月8日にブラボーという一発で広島の原発の1000倍の威力がある水爆実験をする。5発セットとして行われたのですよ。つまりね、そんな素晴らしい演説をした大統領の舌の根も乾かぬ内に!こういう実験を平気でやって海を死の灰の渦にしてこの時平和を考えていたのかというと噴飯ものです。ヘイワをヘとも思っていない!だけど売り込むために何で必要だったのかを話さないと、そこを話さないと今日の講演はどうしても終わらないのですよね。
 原子力は戦争の道具だったでしょう?この演説の前までは、正直に「核分裂生成物」と言っていたのです。しかし、それじゃあPRできなくなった。ウランの爆弾を広島に落として、プルトニウムの爆弾を長崎に落とした時は、アメリカでは秘密の核開発だった。アメリカ国民に秘密にそういうことをするのは憲法に照らすと違法なのです。しかも金額が半端ではない。戦争が終わろうとしていて、誰も責任が取れない。唯一責任が取れそうなルーズベルトが死んでしまった。ドイツもへたっていたし、もし日本が降伏して爆弾を落とせなかったら大変です。世紀の使い込み犯罪です。爆弾を落とすしかない。どこの辞書にも出てないですが、明らかです。トルーマンたちは落として、アメリカ国内外にPRして同時にアトムを売り込む大作戦しかないと思っていた。
 日本国内では情報を封印していた。何も知らないアメリカの国民に、売り込みをした「この新しい兵器を使うことで早く終わって皆さんの息子たちが死ななくてすんだ」と。ぼく達のじいちゃん達はみんなだまされた。その売り込みで核開発の予算をガッポガッポ組んだ。組むために、夢の兵器があるという事とソ連に対する恐怖を煽る。その二本のPRの道を進んで来たのですが、50年代に入ってソ連に水爆ができて、アメリカの国民が少し目覚めて怖くなって、これは挫折の道なんだと気づいた。もしソ連と戦争になれば、どうもアウトだという事に気づいた。ソ連に対する恐怖をあおれば逆効果になる。国民は核廃絶を望むだろうということになったのです。1953年頃です。
 国防総省の人達は、慌てて違う売り込みをやらなきゃならない。今、冷戦中だけど戦争をやってないから、戦争を使って売り込みができない。夢の兵器が悪魔の兵器に見えてきた。ソ連の脅威をあおればますます国民は核廃絶を望む。アイゼンハワー政権には一番の課題です。アメリカ国民と世界市民にどうやって核を売り込むか。難しいです。核兵器の恩恵は何もないでしょう市民の生活のなかに核の恩恵は?皆さん何か核兵器でいいことある? 洗濯物が真っ白になるとか、無いんだよね。ドモホルンリンクルのように皺がなくなるとか、バイアグラのような効き目があるとか。そんなものは何もない。それがあればサラリーマンに売り込めるけど何もない。絶滅の恐怖と隣り合わせに生活するしかないという側面だけ。皆さんの生活を何か引っ掻けるフックがあれば、だます事ができるんだけど。
 これが広告業界のプロの奥の手です。どうするかというと新発売、新種、パッケイジを作り変える。今、原子炉は何かというと電気?発電所?というでしょう?原子炉は本当は何ですか。ウラン235は核分裂生成物です。238が自然界にあるのですが、235も少しだけある。238を濃縮していくとウラン235が出来る。そうするとウラン爆弾が作れるし、核分裂生成物の原発にいれるやつも作れる。これは自然界にある。プルトニウムは自然界にない。プルトニウムは1940年に初めて作られた。ウランよりもっと凄い。核兵器を作りにはプルトニウムが一番良い。長崎に落とされたプルトニウムが一番良い。そのためには核分裂が必要だ。方法としてはウラン爆弾を落とせばできるけど、そうすれば飛び散ってしまう。じゃどうするかというと、熱い釜のなかで原爆をジリジリ反応を抑えながらやるとできあがるその装置が1942年にマンハッタン計画の中で作られて、その核兵器を作るための原料を作る装置として開発されたのが「原子炉」です。そのあと作られた核兵器水爆も含めてプルトニウム。原子炉はプルトニウムを作るための機械、今もそうです。それじゃあ売り込めない。
 見えてるとマズイからパッケージを変えます。色々管を付けます。蒸気がでるからね、原爆を圧力釜のなかでやるから凄い熱がでる。、冷やすために水を掛けると蒸気が出る。蒸気が出ると汽車ぽっぽが走らされる。タービン回すこともできる。タービン回すためだけにこんなバカをする人はいない。でも、ついでにできるからそれを主たる目的のように見せて、皆さんの便利な機械として売り込もうではないかという天才的なコピーライター達がいて、その作戦が発表されたのが1953年の12月8日それが今の福島を作っている。それから出てくる言葉はみんな嘘。平和利用を屁とも思っていない。この中にいれるウラン235は燃料ではない。出てきたのは勿論使用済みではない。核兵器を作ろうと思ったら作れる。では今プルトニウムが欲しいかというとそうでもない。プルトニウムは佃煮にするほどある。佃煮にしない方がいい。馬に食わせるほどある。馬にも食わせない方がいい。余っているけど、平和利用というPR作戦、核戦略の隠れ蓑として機能する為には続けなければいけない。だから続ける。ドイツは原発を要らないというでしょう、それは核兵器も要らないと言っていること。だって同じだもの、原爆と原発と。強いていえば器が違うというくらい。そこをチャンと見抜かなければ何も書けない。見抜けないまま書いたら、逆に無意識のうちにどこかでそのペテンに加担することになりかねない。詩人として私たちにやんなきゃならないことは、言葉ひとつひとつに何が組み込まれているか点検して、見抜いて。それで終わりにしないで、ロダーリが「平和勃発のお祭さ」と素晴らしい言葉を作ったみたいに、僕らも創作でしか示せない方向を、これからも打ち出していかなければならないと思っています。


質問:今回のお話が今まで聞いたなかで一番烈しいような気がするのですが、3・11が影響しているでしょうか?


 うん、そうですね。僕はよく抑えているのですが。影響してというか、一年前にこの話をこういう場で今のような調子でしたら、多分皆さん「きょとーん」として、ついて来られない。というか、僕が一人で暴れて叫んで浮きまくってとなりかねないと思う。
 去年の5月にニューヨークでNPT(核拡散防止条約)の五年に一度の見直し会議がありました。まったくインチキの条約なんだけどそれも、アイゼンハワーが提案したんだけど、IAEA国際原子力機関の仕事の一貫として原発PR・核兵器利権を守る条約なんだけど、五年に一度見直す会議があった。その時、広島から被爆者や核兵器廃絶運動をやっている人が行ってデモをした。僕は行けなかったのだけど、ラジオで話題にしたかった。話題にする隙間がないけど、ディレクターと相談して広島に取材をして、高齢なのでこれが運動の最後といってニューヨークに飛び立っていく被爆者の話を伝えようと準備していた。それが、たまたまその日に「もんじゅの再稼働」のニュースが入った。もんじゅといったら、1995年にナトリウム洩れの事故が起こって、15年も止まっていたのです。それを動かすという、それがストレートニュース。その時たまたま僕はホテルに居た。スタジオにいたらディレクターと相談して、「いや、ちょっとな」とか言われるかもしれない。僕はホテルにいる。こっちが喋っちゃえばどこにも止められない。制御不能。ディレクターの顔も見えないし吉田照美さんの顔も見えない。何にもできない。あ、これだと思ってもんじゅを思いきりやった。核、核兵器のあほらしさを思いっきりやった。それは天がくれた隙間なんだよ。でもそれ以外はもう、ラジオだってなかなか言えない。
 そういう世の中が何を生みだしたかっていうと福島を殺す今を生みだした。福島の南相馬市に僕の友達、高橋さんが住んでいる。七代目まで毎年お米を作ってきた。いろんな生命をずっと育ててきたその田んぼが、今はストロンチウム・セシウムの渦なんです。いつ田んぼを作るの?その田んぼを殺したのは今のメディア、平和利用の作戦。だからそういう隙間を見つけて言わなくちゃ。「セシウム235」なんて大人しい詩を書いてあれです。だけど、もうそんなことやってる場合じゃない。建前はもういい。建前では日本の子どもたちを守れない。建前で残る詩は書けない。そういう思いでいる。でも中味的にぼくが3・11で大きく変わったことではない。ただ、僕の社交性が著しく低下した。もう構っちゃいられない。ここでアイゼンハワーの事を本気にしゃべって、中曽根の事を喋って正力のことや野田のこと喋って、NHKから今夜限りとなっても知らない。どうでも良いという思いでもある。前もそうだったけど、あの頃はまだ一寸社交性があったというか、今は礼儀を止めにしたというだけです。個人的には止めてはないですよ。

 ちょっと、詩人の集まりなのでこれは絶対言わなけりゃと思っていたのですが、『本当のサーカス』というお話があって。とんでもなく搾取されてサーカスを止めた六匹の仲間が新しいサーカスを始めたのです。その時のポスターが村に張り出されたのですが「新しいサーカス!子どもと詩人だけが入場できます!」としたんです。子供たちは行きたい。大人たちは詩人だけ?という拘りがあるけれど見てみたいという気持ちがそそられて、会場は超満員。この子どもと詩人だけというのはどういう意味かというと、子どもは裸の王様を見ると「裸だ」と言っちゃう。詩人も裸だと言わなくちゃいけない。核燃料じゃないよとバカみたいに言うのが詩人なんだね。僕もあるイベントに「嘘を信じて安心したい人は来ないでください」とタイトルをつけようとしたら主宰者の人に「この会には烈しすぎるので」と使われなかったのですが、皆さんこういう否定する事で興味をそそるタイトルは効果的なのでどんどん使ってください。
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