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詩朗読:北山りら
「南洋桜─緋色の願い─」
彼女の生業である看護・介護の関係で知った八十余歳の「柴田さん」を通じてサイパン島での悲惨な戦争を語る。/新しい靴が落ちていたので拾ってみると/馬鹿に重く中をのぞくと人間の足がそのまま/入っていたことも・・・/というような表現はまさに体験者のそれであるが、介護をしながら聞き取るという形態で詩になっている。終わり頃にはわずかに声が潤んでいた。 |
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詩朗読:安田風人
「空を飛ぶ魚」「母への手紙」
用意してきたCDを掛けながらの朗読。冒頭の/魚が鳥にあこがれた/あんなに遠く悠々と空を飛びたいと/まわりの魚はアドバイスをした/夢はぜったいにかなうよ/決してあきらめちゃダメだ/
空を飛ぼうとしても当然ながら飛べない魚。それが自分で「本来の姿」に気づくことによって向上していくという詩なのだが、誰も無責任に「頑張れば鳥のように飛べる」と言った魚を責めないんだと・・・・思った。(私は) |
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詩朗読:すみくらまりこ
「愛の闘士」「割れ鏡」
どちらも母・父・自分との関係性をうたった詩で、/レッドパージ下/汽車乗り継いで旅暮し/小樽からの手紙は/濡れていた/というのだから、共産党の闘士だったのだろう。女手ひとつで育ててくれた母。党の政策に従った父。それでも子への愛は示されてというのが温かく伝わってきた。すみくらさん自身の「愛の闘士」は具体的にはどんなんかな?と思う。 |
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詩朗読:清水一郎
「海へ」「妹よ」
パーキンソン病を患う妹さんへの慰めの詩が鎮魂の詩になってしまったという。
/妹には胃へ直接のチューブ食/寝たきりでも血色はいい/でも その良し悪し私には解らない/誰にも人間が何処まで生へタッチしても好いものか解らないものでしょう。神の領域へも入っているのじゃないかと時に思う。そうして「ワオーッワオーッと叫ぶがいい」と言いながら一歩引かざるを得ない心情は了解できる。 |
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詩朗読:玉川侑香
「ミヨちゃん」
1995年阪神淡路大震災の後はもっぱら震災の語り部として朗読活動をしている玉川さんは、テキストを持たず、堂々と朗読をして皆をうならせた。/震災の日/つぶれた家の下敷きになって/お父さんと子犬のポチが 死んだ/それからお母さんの実家で暮らすようになったのだが、失語症になってしまったミヨちゃんは自分の不安を言葉にできない。お母さんが/ミヨちゃん/神戸へ 帰ろか/と言われた時に言葉が戻ってくるという劇的な、それも充分あり得る設定になっていて、朗読の間の取り方などとても参考になった。 |
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詩朗読:和比古
「命のバラード」「いのちを感じるとき」
彼の抽象絵画のテーマである目玉と△や□などの表す情景を言葉にしてみましたという感じで、関西詩人協会自選詩集の表紙にもなっている図形の意味が氷解した感じ。/いのちのダンスは続く/エネルギーが満ちてきた/夜が明けていく/変貌して行く意識から/自分の存在を感じる/新たな日が始まる/(「いのちを感じるとき」から)絵を描く人ってこうやって色や形のなかに鎮まっていくのかなぁと感じた次第。 |
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詩朗読:名古きよえ
「水の姿」/水を見ているわたしは水に見られている。人、部屋、机、椅子も先には水になると、水に見つめられている。すべては水から生まれて水に帰るべきものだと/独特な抑揚で語られる水の哲学とも言える内容だった。個人に属するものなど何もなく、人間に属するものも又ない。自由気ままに地球環境を変えながら生きている人間は、横暴と言えるでしょうね。
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詩朗読:藤谷恵一郎
「蟋蟀」「陸へ 空へ どこへ」肉体労働に明け暮れする労働者の、ガヤガヤと一時の休憩を貪る労働者において、闖入者の鬼やんまや蛾や蟋蟀はどのような意味をもつ存在であったのか。休憩室の一幕を詠んだ「蟋蟀」は印象深い詩だったが、読み方にもう一工夫あった方がよかったかと思う。「陸へ 空へ どこへ」は増長する人間への警鐘と聴いた。
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