関西詩人協会イベント2010


ことばのちから    
             詩を書くことと、生きること

主催:関西詩人協会
日時:2010年10月3日(日)
場所:エルおおさか

ちょっと突っついたら泣きそうな秋の空を気にしながら大阪の会場エルおおさかを目指す。ビデオの本体と重たいカメラとビデオの脚、それに傘なんかもリュックの中に入れて。もう五歳も歳を取ったらこんな格好で歩けないだろうなと思う。全員が席についたら、参加人数出演者も入れて64名の盛況だった。
予定していた第一部の講師、北川朱実氏が遅れるという連絡が入ったとか、急遽第三部の詩朗読から始まった。

はじめの言葉
横田英子事務局長
司会:北原千代・北村真

詩朗読:北山りら
  「南洋桜─緋色の願い─」
彼女の生業である看護・介護の関係で知った八十余歳の「柴田さん」を通じてサイパン島での悲惨な戦争を語る。/新しい靴が落ちていたので拾ってみると/馬鹿に重く中をのぞくと人間の足がそのまま/入っていたことも・・・/というような表現はまさに体験者のそれであるが、介護をしながら聞き取るという形態で詩になっている。終わり頃にはわずかに声が潤んでいた。
 詩朗読:安田風人
  「空を飛ぶ魚」「母への手紙」
用意してきたCDを掛けながらの朗読。冒頭の/魚が鳥にあこがれた/あんなに遠く悠々と空を飛びたいと/まわりの魚はアドバイスをした/夢はぜったいにかなうよ/決してあきらめちゃダメだ/
空を飛ぼうとしても当然ながら飛べない魚。それが自分で「本来の姿」に気づくことによって向上していくという詩なのだが、誰も無責任に「頑張れば鳥のように飛べる」と言った魚を責めないんだと・・・・思った。(私は)
詩朗読:すみくらまりこ
  「愛の闘士」「割れ鏡」
どちらも母・父・自分との関係性をうたった詩で、/レッドパージ下/汽車乗り継いで旅暮し/小樽からの手紙は/濡れていた/というのだから、共産党の闘士だったのだろう。女手ひとつで育ててくれた母。党の政策に従った父。それでも子への愛は示されてというのが温かく伝わってきた。すみくらさん自身の「愛の闘士」は具体的にはどんなんかな?と思う。
詩朗読:清水一郎
 「海へ」「妹よ」
 パーキンソン病を患う妹さんへの慰めの詩が鎮魂の詩になってしまったという。
/妹には胃へ直接のチューブ食/寝たきりでも血色はいい/でも その良し悪し私には解らない/誰にも人間が何処まで生へタッチしても好いものか解らないものでしょう。神の領域へも入っているのじゃないかと時に思う。そうして「ワオーッワオーッと叫ぶがいい」と言いながら一歩引かざるを得ない心情は了解できる。
詩朗読:玉川侑香
 「ミヨちゃん」
 1995年阪神淡路大震災の後はもっぱら震災の語り部として朗読活動をしている玉川さんは、テキストを持たず、堂々と朗読をして皆をうならせた。/震災の日/つぶれた家の下敷きになって/お父さんと子犬のポチが 死んだ/それからお母さんの実家で暮らすようになったのだが、失語症になってしまったミヨちゃんは自分の不安を言葉にできない。お母さんが/ミヨちゃん/神戸へ 帰ろか/と言われた時に言葉が戻ってくるという劇的な、それも充分あり得る設定になっていて、朗読の間の取り方などとても参考になった。
詩朗読:和比古
「命のバラード」「いのちを感じるとき」
 彼の抽象絵画のテーマである目玉と△や□などの表す情景を言葉にしてみましたという感じで、関西詩人協会自選詩集の表紙にもなっている図形の意味が氷解した感じ。/いのちのダンスは続く/エネルギーが満ちてきた/夜が明けていく/変貌して行く意識から/自分の存在を感じる/新たな日が始まる/(「いのちを感じるとき」から)絵を描く人ってこうやって色や形のなかに鎮まっていくのかなぁと感じた次第。
詩朗読:名古きよえ
「水の姿」/水を見ているわたしは水に見られている。人、部屋、机、椅子も先には水になると、水に見つめられている。すべては水から生まれて水に帰るべきものだと/独特な抑揚で語られる水の哲学とも言える内容だった。個人に属するものなど何もなく、人間に属するものも又ない。自由気ままに地球環境を変えながら生きている人間は、横暴と言えるでしょうね。
詩朗読:藤谷恵一郎
「蟋蟀」「陸へ 空へ どこへ」肉体労働に明け暮れする労働者の、ガヤガヤと一時の休憩を貪る労働者において、闖入者の鬼やんまや蛾や蟋蟀はどのような意味をもつ存在であったのか。休憩室の一幕を詠んだ「蟋蟀」は印象深い詩だったが、読み方にもう一工夫あった方がよかったかと思う。「陸へ 空へ どこへ」は増長する人間への警鐘と聴いた。

テータイム・トーク:私をささえた詩

河井 洋        村岡空氏の「大阪市生野区猪飼野中一丁目九番地」という詩をまず朗読。
この詩は現在所属している「リヴィエール」の前身である、伴勇氏主宰する「近畿文芸詩」の1968年9月号に掲載された詩だが、私が24歳の時、この詩の発表があった1968年に入会した。
 詩と思想の発足同人でもあった村岡空氏である叙事的抒情詩の、モロの影響を受けた。地名や生々しいことをそのまま書くというタイプの詩を書き始めた。詩誌「舟」には中正敏さんの紹介を受けて入会した。
 影響を受けた詩人としては同人の石村勇二。流れるような文体の三井葉子さんや銀河詩手帖の森泉エリカさんや、現代詩手帖の鈴木志郎康の影響を受けた。
 特に感動した詩集では、宗左近の「燃える母」があり、生きる支えとなった詩といえば宮沢賢治の「雨ニモマケズ」やどこかの同和会館でみた「水平社宣言」。猪苗代湖の博物館で読んだ、野口英世の母からの「野口英世に宛てた手紙」などは感動的だった。近代詩や唐詩なども好きです。全然ちがうと言われるかも知れませんが西脇順三郎の詩も好きです。
犬飼愛生         大阪芸大文芸学科に在学中、詩のゼミの研究は鈴木志郎康をしていたが、その時友人の課題であった伊藤比呂美さんの詩に衝撃を受けました。伊藤比呂美さんの「歪ませないように」を朗読。今出会ったことのない女性詩の刺激されもっと詩の世界に入っていきたいと思うきっかけになった。
 社会人になってから、詩作の停滞期があり、詩をどうしようかと思っていた時に出会ったのが茨木のり子さんでした。茨木のり子さんでした。「自分の感受性くらい」を朗読。この詩のメッセージは最終行だと思いますが、頭をがーんと打たれたようになりました。何度も心に響いてくるフレーズが詩の力だと思う。これでもう一度詩を本気で書こうと思いました。
 とにかく自分の詩を批評してほしいと思い、その手段として『詩学』へ投稿を始めました。そこで出会った投稿仲間の一人に木葉揺さんがいます。木葉揺さんの「柿もって謝りに」を朗読
 自分が詩を書き続けたいと思ったら、刺激し会える良い仲間、環境があって欲しいと思います。一人で家にこもって書いていたら、それはただの趣味です。こういう協会に参加するのもぜひ若い方も……今日はちょっと、余りいらっしゃいませんね……(会場笑い)ひとりでこもっていないで、外の世界に出て行くことが大事だと思っております。
佐古祐二          忙しくしていた18年前ほどに、腎不全で人工透析を始めなければならなくなった頃が、詩を書くようになったキッカケです。詩を書くことは衝動的でしたが、読む事はもっと前からしていましたし、詩に関する散文や詩論も意識して読みはじめていました。僕のなかに喜びや名付けようのない感情を与えた詩は数多くありますが、少し紹介します。八木重吉の「静かな焔」を朗読。/各つの 木に/各つの 影//木 は/しずかな ほのお/影があるということは、そこに実体があるということです。ここではその存在は木という一見静かに立ちつくしていますが、それ自体が焔であると言っています。生きるということを簡潔に歌い上げています。なおこの詩では各をひとつと読ませていますが、そこにはひとつのこらずそれぞれが燃え上がっているということを込めているように思わせます。一人は他者によってみいだされるということでしょうか。
 黒田三郎の「秋の日の午後三時」を朗読。この詩の背景は、黒田はNHKに勤めていましたが妻の入院中に、勤めを休んで娘のユリの世話をします。そのある日の情景を描いています。私の場合、病気の悪化で病院に行った帰り、いつもは仕事をしている時間帯に世間から遠い時間にある情景描写から作者の置かれた位置が逆照射されて、黒田のこの詩の実感が共感できました。
 谷川俊太郎の「詩」を朗読。詩は生きることそのものだと、恋愛という素材により平易に教えてくれています。詩という言葉であって、詩そのものを捨てたわけではない。詩と詩の言葉については弁証法的に否定の否定による止揚と理解するべきでしょう。
 谷川俊太郎の『考えるミスター・ヒポポタムス』の中から二行を朗読。/今日はいい天気だったから、ずっと川で浮かんでいた。/ぼくは一生なんにも考えないで生きていけるのではないかと考えた。/ヒポポタムスとは、カバのことです。つまるところ、やはり考えているというユーモアがあります。人生のエアポケットに落ちこんだ心情に共感するものがありました。
 杉山平一の「日日」朗読。カバ君と似たような状況です。一連はカバ君に似ていますが、二連が違います/渾身の力をこめて 一心に木ねじを締め付けていた/人が生きるという事はこの木ねじのようでなければいけない。むしろ意志的な意味を端的に押し出していて、切れ味がいいです。私の場合は病気という事があったので、詩を通して生きるということが何なのかが、ある意味関心事だったと思います。

北川朱実さんの紹介:橋爪さち子










北川朱実 講演 『詩を書くことと、生きること─断崖を野原のように生きる─

 サブタイトルを「断崖を野原のように生きる」としまして、生きる意味が強く立ちのぼってくるような詩を紹介しながら、話を進めて行きたいと思います。
 さて、関西といえば、たくさんのいい詩を書く詩人がいますが、中でも詩論集『死んでなお生きる詩人』に書かせて頂きました、清水正一さんは忘れられない一人です。本を出すにあたって、十三(じゅうそう)のお家に行きましたが、ちょっと町外れのところに江戸時代の忘れ物のような軒長屋がありまして、その一軒に奥様が一人で住んでみえました。家の中の至る所に木の本棚があり、長屋が傾くほどでしたが、清水さんは詩を書く時は、いつも和服で正座して書かれたそうです。
 清水正一「黄昏(ゆうぐれ)」朗読。短い詩ですが、このお婆さんの孤独で顔を洗ったような気持になりました。清水さんも散歩しただけの一日では終われなかったでしょう。誰彼なく話しかけることで、一日一日をお婆さんは生き延びたのではないか。この詩を見ていると端っこのほうに、お婆さんが立っているような気持ちになります。三連目の五行で救われます、ここでは作者がお婆さんと同じ血の濃さで呼吸しています。長い人生の間には、足すことも引くこともできない一日があると思いますが、哀しみはこの詩のようにとても切なくて、しかしいつも少しの滑稽さを隠していると思うのです。端っこの方からゆっくり明るんでくるような詩を書きたいと思っています。
 清水正一「わが町二」を朗読。身の置き所がなくて、粘土の溲瓶などを見る振りをするしかないということが、時にありますが、その気持ちがよく伝わる作品だと思います。このようにして一日一日を生きているのは人間だけではないのです。
 梅田智江「黒い小さな虫」を朗読。水の全くない熱砂の土地で、時折流れてくる霧をつかまえて生き延びる虫。でもこの虫が不幸とは思わなかった。そのことを当たり前のように、運命のように無心に受け入れていることに感動します。身体のどこかに湖の破片を隠しているのではないかとさえ思いました。この虫は、人間という存在から遠い存在なのです。世界のことなど何も知らず生きている。生きものにとって一番大切なものは明日の太陽であり、水です。かつてそのような生き物だったはずが、人の命以外手に入れられる全てを手に入れた人間の寂しさを、一匹の虫を通して考えさせられた詩でした。作者の梅田さんは2008年に64歳で亡くなられました。調べたところ、この虫は「キリアツメゴミムシダマシ」といって切手にもなっているそうです。
 歌人の前登志夫の随筆「真夏の酩酊・部分」朗読。前登志夫さんは同志社大学在学中に出征し、戦後詩集を一冊作って、後に短歌に転じました。そして生涯林業を営みながら「山繭の会」を主宰しました。この文章は、兵士が生きるためではなく、死ぬための訓練をするまでに追いつめられた一日を書いたものでした。兵士たちが、艦砲射撃から逃げるために林檎園に入ると、村の女たちが生き生きと盆踊りをしていたのです。八月の精霊のための、いつもの通りの盆踊りを踊っていただけかも知れないけれど、彼女たちに、忘れていた原始の野太いものを感じます。人間は極限状態になると、当たり前の事が当たり前でなくなることがあります。(小説の神様志賀直哉の昼食会の話から、近藤啓太郎の世間を忘れた発言の話をする)命がゆらめく夜の林檎園の光景は、どんな言葉より重く深く前さんの胸に迫ったと言えます。
 自身の詩「星座」を朗読。通常夜中とか明け方には電話を控えるのですが、私の友人はいつも明け方に電話を掛けてきました。会うと、延々と話をして夕方には清々しい顔をして帰っていく彼女を見送りながら私は、彼女は「生きようとしている」と思いました。そういう事は植物でもあるのです。草や木も、傷つくことがあると遺伝子を変化させて、生き延びようとすることが分かったのです。
 もう一篇「字が書けそうだった」を朗読。人は、忘れたいと思うことほど長く憶えています。そんな話は、人間の脳の精巧さを恨めしく思ったものですが、文字にしなければ七割はいつか忘れられると言うことが分かったのです。しかしながら、文字は想像を絶するほどに人間の文明文化に寄与していて、文字を書くということはすでに遺伝子に組み込まれているのではないかと思うほどです。空に大きな白い雲が流れてくると文字を書こうとするのです。
 さてここから正岡子規の話を少しします。資料の正岡子規の横顔は亡くなる数年前のものですが、子規の「写生」論、見たものをありのまま書くという主義に賛成したのは斎藤茂吉、夏目漱石、伊藤左千夫、長塚節、小林秀雄、正宗白鳥です。それでは工夫がないと貶したのは石川啄木、北原白秋、若山牧水、高浜虚子、河東碧梧桐です。芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の「あつめて」は作為があっていやらしい。蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」は、ありのままで清々しいと言って、蕪村を採ったといいます。
 子規は俳句より随筆の方が、随筆より、寝たきりになってからの日記の方が格段に面白いと言われています。子規は今から145年前に四国松山に生まれました。東京の予備門に入って、21歳で喀血します。22歳の時に漱石に出会いますが、漱石は子規の健康な姿をみたことがないといっています。子規は、日清戦争の従軍記者として中国へ行きますが二カ月後頃には担架で運ばれて帰ってきました。松山に帰省してみると漱石が赴任していました。そこで漱石を二階に上げて、自分は一階に陣取って二カ月を一緒にすごしました。二カ月後に再び東京へ行くのですが、30歳の若さで腰椎カリエスとなり寝たきりになったのです。月給30円で新聞社「日本」の記者として、今でいう在宅勤務のような仕事をしました。「日本」を起こした陸羯南(くがかつなん)が「ひょっとしたら神からの預かりものかもしれない」と直感して彼を支えました。子規は根岸の家で、寝ながら句会を開き俳句雑誌「ホトトギス」を創刊しました。随筆集も四冊を出しました。ホトトギスという鳥は口の中が赤いんだそうですね。子規は毎日喀血していて口が赤かったので、そう名付けたそうです。そのゆとりというか開き直りに感心します。
 日記「病牀六尺」から一部を朗読。子規の背中にはカリエスと悪性の出来物で、七つの穴が開いていて、母親と妹律にしてもらう包帯の取り替えが大変でした。その痛みに悲鳴を上げながら、死を間近にしながらも子規は狂気としかいいようのないほどに食べました。子規の亡くなる前から書いた「仰臥漫録」一部を朗読。これにはその一日の三度の食事とおやつなど、食べたものを書いていますが、例えば、長塚節から贈られた三羽の鴫をお昼に全部食べ、粥三椀と葡萄を平らげました。おやつに牛乳一合、菓子パン、塩煎餅、夕食に与平餅を三つ、粥、マグロの刺身、煮ナス、奈良漬け、葡萄、夜食に林檎二切と飴湯を飲んだあと「淋しさの三羽減りけり鴫の秋」と書いています。何か笑いが込み上げてきます。食べ過ぎては吐いて歯茎の膿を押し出してはまた食べて、おむつに大量の便をしました。
 子規は文学をするために、必死の思いで食べたのです。世界を見たがった子規は30歳で寝たきりになり、布団一枚分の小宇宙で文学をしなければならなくなった。しかし、食べることによってそれを力に変えていったと言えます。こういう人間は自意識が強くて、今だったら厄介者にされるのかも知れませんが、彼が何故こうも私たちの心を惹くのか。それは死ぬほどの苦しみの中で、悶え泣きながら子供のように果てることの知らない好奇心と知識欲を、伸びやかに遊ばせて文学を追究したことにあります。明治35年9月18日の夜でした、妹に画板を持ってもらって、子規は寝たまま最後の句を書きつけました。真ん中に「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」左に「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」右に「をととひのへちまの水も取らざりき」と書いて筆を投げました。その日のうちに昏睡に陥り、明け方前に息を引き取りました。34歳と11ヶ月でした。東京根岸には子規庵があります。子規が死ぬまで住んだ小さな家が再建されています。玄関を入ると、左側に寝たきりになった部屋があり、へちまの植えてある小さな庭がありました。隣の六畳間の仕切りは取り払って毎日やってくる文学者と、文学論をたたかわせたということです。机の前が20センチ四方に切り取られて填め込み式になっていました。ひだり膝がまっすぐに伸ばすことができなかった為、このように大工に作って貰ったということです。目の覆いたくなるような最後を生きた人の、この場所に立って私はむしろ励まさました。「痰のつまりし仏かな」と、自らおかしがって死んでいった子規の心のゆとりに、そして、いかなる境地に立たされても、平気で食べ続け文学を続けたことにも励まされたのです。私たちは傍目には滑稽な夢であっても、それがあるからこそ生きて行けるのです。大江健三郎は、自己救済の為に小説を書いたと言っておりますが、子規にとってのつっかい棒は俳句であり、私たちにとっては詩なのです。
 私はなまけ者で、熱が37度なかりあると嬉しくて、いそいそと普段食べないような果物を買いに行ったりして詩を書くのをさぼったりするのですが、そんな時、机の傍に置いてある「病状六尺」を読むと励まされるのです。五木寛之さんは、子供の頃から「仰臥漫録」を読んで元気をもらっていたそうです。
 公園で誰彼なく声をかけることによって一日を生き延びるお婆さん。アフリカの砂漠で一滴の水を待ち続ける虫。艦砲射撃の中で盆踊りをする女性達。遺伝子をひっそりと変えて生きる植物。文学の為に必死で食べた子規。書くということは「野原を断崖のように歩くことだ」と言ったのは開高健ですが、私はむしろ「断崖を野原のように歩く」ことであってもいいと思います。そして、詩も小説も、決して閉じずに解放されなければならないと、いつも心に置きながら書いているということをお伝えして話を終わりたいと思います。


記念品贈呈:佐相憲一 終わりの挨拶:尾崎まこと






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