関西詩人協会・第一回春の詩話会
       言葉の花火翻訳者と詩を語る集い       日時:2010年3月22日(月・祝) 
                                   場所:エル大阪 5階 504号室 
                                   参加者:32名


                     ──翻訳よもやま話・他──   レポート:紀ノ国屋 千

左から、発話者として寺沢京子、翻訳者薬師川虹一、翻訳者藤井雅人、翻訳者アンガス、翻訳者村田辰夫、発話者北原千代各氏
詩集:「言葉の花火」翻訳時、翻訳者が感じたり、苦労、工夫された点を聞きながら、そこに潜む「詩」の機微を参加者とともに語り合う集い。
加えて、詩集:「言葉の花火」所収の日・英両語で記された詩のそれぞれ作者と翻訳者による朗読も行う。

司会:村田辰夫(関西詩人協会運営委員(国際交流担当)<梅花女子大学名誉教授>
講師:ANGUS Normasn James  <橘大学 文学部英語コミュニケーション学科教授>
   藤井雅人(関西詩人協会会員・日本現代詩人会・日本詩人クラブ会員)
薬師川虹一(関西詩人協会員)<同志社大学名誉教授>
言葉の花火関西詩人協会英訳詩集刊行会翻訳主幹(統括)
会員発話者:寺沢京子(関西詩人協会運営委員(インターネット担当))北原千代(関西詩人協会運営委員(イベント担当))


TEXT:『言葉の花火 第四集』 
13:00 開会 案内 横田英子さん
      挨拶・司会:村田辰夫氏

<司会>、村田辰夫氏のお話
 今回は、言葉の花火 における各詩翻訳の時、翻訳者が感じた工夫を話して日本語・英語の相違、詩全般の微妙な話題などを気楽に喋りあいたい。素材は『言葉の花火 第四集』です。今回のきっかけは、たとえば私(村田氏)のある風景を描いた詩、

 稲田の横の電柱のすずめが
 ぱっと飛び立つ空に鰯雲
 刈り入れ機のモーター音がひびいて・・・略・・・

 これを英訳すとどうなるのだろう。稲田→rice(paddy) fieldなどでよいのか。すずめにしたって、その数は、1羽とも数羽ともとれる。ある人はパッとという表現から複数とイメージする。しかし、どこに止まっているという事は書いてない。薬師川氏は、電柱の腕木に止まっていたとイメージして飛び立ったのは1羽だという。また、鰯雲→Sardine cloud などとしてそのイメージが出せるのか。訳す事に先立ちそのいろいろを解釈しなければならないだろう。
 訳する前に、この文章の、風景の細かいイメージが必要である。そして、全体を汲み取らないとイメージは識れない。また、日本語・英語の違いをもしっかりと認識できていなければいけない。詩はまずイメージの汲み取りからかからねばならない。という事共を喋りあいたい。

講師、藤井雅人氏のお話
 司会のお話にあったが、翻訳というものには、難しいところがある。そして、翻訳とは冒険という側面もあると思う。たとえば日本語→英語訳という時、別の文化にもっていくとどんな振る舞いをするのか、予想もつかない事がある。
 言葉・詩句を正確に置換するという事は大変な仕事である。置換から翻訳になっていない場合もある。この処の難しさがある。反応の不安。文化の違いをしっかり考える。日本語の詩のPOINTを明らかにする。例えばそのために詩句に、演出としての!(感嘆符)などをつける工夫もよいかもしれない。英語や仏語は分析的言語である。分析的という意味は、一つの文章の要素をハッキリと表現したい傾向があるという事である。この傾向は、英語・仏語に特に強い。この点、外国語でも独語などは日本語に似ている点もあるが。日本語は、要素をぼかす傾向が強い。またあいまいな作者の表現も成り立つ。例えば、日本語は、主語、述語を明確に出さない表現も許されるが、英語は主部、述部のない文章は文法上許されない。翻訳に際しこの違いの軋轢は大きい。
 英語の考え方は分析的である。その論理性は二分法といえる、つまり善悪どちらかである日本語ならどちらもとなる場合が多い。英語の考え方は科学などでは明快なものとなるが・・日本語と比べた場合言語的にはどうなのだろう。たとえば、直訳すると「赤ちゃんきれい」と書かれた文章、日本語として受け取るとストレートすぎて、本当の意思が伝わらない。この文章の場合、日本語で赤ちゃんをこの世に無いような美しさと表現したいもの、つまり人の世には、モヤモヤとしたものや蟠りを含んだ意味をも含めたものの思いをこめた「赤ちゃんきれい」という言葉にならず、英語はピアストレートとなってしまう。英語には、善と悪なら善を、美と醜なら美を主張したい、つまり物事は理想を実現するべきというプラトン以来の表現主義がある。対極として東洋的には、老子のような思想、無為自然がいい。自然は人の知恵では推し図れない大きなものがあるから人はこれを学ぶべきという考え。他の礼をあげると例えば「鬼」。日本語では、極悪だけではなく親しみの念もある。かってのオリンピック女子バレーの鬼の大松の例。鬼をdemonと訳すと徹底的な悪になり、spiritとすれば善い方となる。このような存在の訳は難しくなる。
 日本語の詩を英語に翻訳する場合どんな詩がうまく訳せるかと考えてみるのもよいが、あまり考えすぎるのもよくない。芭蕉に代表される、俳句は短縮文芸ともいえるが、リズム的には異なる感がある、抑揚・脚・行の数など短縮文芸は言葉で造ったフランス庭園ともいえる。本来の日本語は日本庭園とも形容でき、窮屈な考えはしない。日本の現代詩にもこの感覚は残っている。1行の中に1語ないし2〜3語しかない詩、これなどは英語にはどうなのだろう。俳句は多くの詩人に影響を与えているが、佳い詩を創るためにはまず狭い見方に捉われすぎないということも肝要と思う。つねに自己改革への挑戦の中からよい詩が生まれるとも思うので。          以上 藤井氏 

<司会>村田氏:今回から、各氏の訳の仕上げをANGUS Normasn氏に、@言語構造の違いA論理性の違いB文化の違いも一考してくださるよう依頼しました。

薬師川虹一氏のお話
 村田氏・藤井氏のご意見で、主語が必要だというが、英文にも主語が無い場合もある。しかし、日本語はその点非情にあいまいでもあるが、以心伝心・腹芸・顔色を見る・・気を大切にしているという面もある。いずれにしても、主語はあまり重要ではない。英語の場合でも主語を入れなくてもよい、分詞構文等文章として成立する。「言葉の花火」の訳で困るのは、例えば先ほどの村田氏のある風景を描いた詩の中での「スズメ」複数なのか単数なのか・止まっている場合→電線上なら、村田氏の言われるように「パッと」で複数。腕木なら1羽でもよい。
 詩の翻訳では、解釈も重要と思う。科学翻訳の場合ならたんたんと記述すればよいが、詩人の場合訳が分からない。論理的でない。ハッキリ分からない。というものが多い。そこで解釈が必要・重要となってくる。
 例えば、バンパイアーの生地リトアニアのある詩人の詩にある、「かもめ」英語でone sea gullと表現されるこの「かもめ」俳句のように、@1羽のかもえA一つの思い(情でもいいか)だったのかBちらっとかすめた一つの思いだったのか、翻訳ではこんな時?マークを入れる事もある。が作者とズレの出る場合もある。解釈の相違、それは生き方の、人生の相違でありやむおえない齟齬である。
 主語の違い・・「one sea gull」は「かもめ」なのか「一瞬のかすめた思い」なのかわからない。俳句の例で/古池や/かわず/とびこむ/水の音/この場合、「池」「かえる」はどうでもよい。「静けさ」「寂しさ」が大切なのだ。そこで、言語には特質の違いはあるが、情は」伝達されると信じる。表象という言葉(仏語)representer は、形の無いものに形をもってくる。先ほどの俳句では「池」をもってきた。つまり、心象風景なのである。
 次にもう一つ、擬声音(語)について。北原さんの「ルルのいる家」のなかで、/くたりとした耳/や/ルルの耳はゆるいのです/などは英語にしにくい。しかし、訳には難しいが訳している。どう訳すか。くたり→(書とめ無し)。ゆるい→葛湯をれんそうすればよいのか。また、「薬草園」では、/ほどける綿毛/→これは、タンポポの芽がはじけるさまでよいのか。/土のしめりに はまっている/の「はまる」も訳としては難しい。
 主語・述語の例では、/のみものは/あつく/ひりつき/喉もとから/ふくらんでいった/この場合、/飲み物は 喉もとから 熱くヒリつき ふくらんでいった/と換えて訳したが、作者と訳者の乖離は避けられないだろう。視点あり→は読みやすい、訳しやすい。詩を読むとは、作者と読者の間に解釈が発生する事である。



(スミマセン、まだ途中です)




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