関西詩人協会総会・講演   鷲田清一氏『待つということ』

                      関西詩人協会第17回総会
                      場所 エル・おおさか
                      日にち:2010年11月21日


 全100%詩人の集まりに呼んでいただいて大変光栄というより怖ろしいという感じなんがしております。私、60年代から70年代にかけて学生生活を送っていたものですから、ご多分にもれず田村隆一、石原吉郎、吉本隆明などを読んでいましたが、詩人が物凄く巨大にみえ畏れをなしてました。20年ぐらいのおつき合をしているのは大阪出身の佐々木幹郎さんですが、彼に兄貴分として人生の曲がり角には相談にいくのですけど、全く関係ない話をしてほっとするような先輩です。
 詩は私にとっては怖い世界なんですが、哲学と詩がある一点において交差するのです。それ自体は推奨されることではないけれど、日常の言葉に無理をやらせる、あるいは文法をきしませるということをあえてしなければ表現できないケースがあるような言語の営みがそうです。
 哲学者が一番ことばで論じられないことは「運動」絶えず変わっていくこととか、「同時性」同時に二つの事が起こっていることとかです。分かりやすく言えば「書く」ということについては書けないんですね。書くとは何かを論述しようとしながら、既に書いているわけです。論述の対象に切り離すことができなくて巻き込まれてしまっています。また、「話す」ことについて話す時は、解かなければならない命題をすでに使っているという矛盾においてしか考えることができない。「運動」とか「変化するもの」について話すとき「あるところのものではなくて、もはやないところのものである」というようなへんてこな、日常では絶対言わない言葉使いをせざるを得ない時があるのですが、詩にもそのような場面があるのではないでしょうか。
 短歌などの日本の古い詩について極めてよく歌われたテーマとして「待つ」を選ばせていただきました。
「待つ」は忠犬ハチ公でもそうです、片想いや警察官の捜査とか、学校の野球やサッカーのチームの補欠選手の悲哀など、「待つ」ということには切ない悲しい辛い想いが付きまとうので、日本の短歌の中ではホントによく歌われてきた人の感情だと思います。
 日本語の「待つ」については、いろんな表現言葉があります。待ち侘びる、待ち遠しい、待ち構える、待ち伏せる、待ちあぐねる、待ちこがれる、待ちかねる、待ち切れない 待ちくたびれる、待ち明かす、待てどくらせど、結局待ちぼうけという風に、嫌というほど待つという言葉の変奏があります。日本人が長く歌ってきた「待つ」ということをめぐる想いや感情が現在はどうなっているのかということを糸口にその意味を少し考えてみます。
 今は誰も待つことができなくなった社会、誰も待ってくれない社会になってきています。私もそうです、痛感するのはテレビの前に坐って8〜15秒のコマーシャルの時間が待てないですね。パパパパと回して野球中継をコマーシャルの間でも見ます。待てないですね。
 昔、ギリギリになっても相手が来ない時の待ち合わせの時間は、胸がかきむしられ、時間が粘液のようにしか過ぎるように思いました。最近は遅れてもケータイすると「あと20分ぐらいかかるから出てきてよ」とか「どこらで会おうか」「また電話するよ」という風に待つ必要がなくなってきています。
 今の高校生ぐらいになると15分以内に返事を出さなければ友達でないと言われるように、脅迫観念みたいなのがあります。昔は海外へ行くと解放されていましたが、今は海外でも通じるんです。(笑い)
 昔は待つということは非常に激しい胸をかきむしるような経験をしてきたと思います。それが最近は待つことがないし待つ必要もなくなってきていると思います。例えば子どもを育てるという場面でも待てなくなっています。子どもを育てるので何が楽しいかというと、どんな子になるのか、先が見えないことが一番楽しみだと思うのに、最近のお母さん方は、先にイメージが強固にあってそれが少し外れようとするとすぐ軌道修正に入ることが多いように思います。そしてハラハラして、思い通りにならないとシンドイ思いをしておられますが、思い通りにならないのが子どもだ、どんな風に育つのか分からないのが子育ての妙だと思えば楽になるのになと思いますが、そういう事ができなくなっている。
 会社では中期目標とか年度計画を立てて、一年ごとにチェックして評価して予算を決めていく。学問なんて半世紀も経ってから成果がわかると言っても全く認められません。ありとあらゆる処で待つ事ができなくなっている、待ってくれなくなっていると思います。「待つ」ということと「期待」を同じと考えるならば、人の視野を狭めてニッチもサッチも行かないところへひとを追い込むものです。
 そういうひとの常を利用した剣士がいます。宮本武蔵は待たせることで小次郎に勝ったと言われています。柴田練三郎の「宮本武蔵」によると、武蔵は定刻まで舟の櫂を削って木刀を作っていた。それから定刻が来たら一寝入りして、それからやおら巌流島に行ったと言われていますが、佐々木小次郎は定刻より早く行って目をつむって平然としているのですが、定刻になっても彼が来ないため、介添人に「武蔵はまだか」と何度も訊くわけです。段々余裕がなくなってきて「来た」という期待と失望のくり返しのうちに、この世のに起きること、波の立つこと鳥の飛ぶことギイと音がすることが武蔵が現れた徴候のように思い、意識が集中してものが見えなくなってしまいます。まだ武蔵の舟が着かない内に走っていって、「こい」と刀を抜くのです。武蔵は汚いひとで「おぬしは負けじゃ」と言います。理由は簡単で、武士が刀の鞘を捨てることはもはや刀を鞘へ戻さない事を観念しているという事です。小次郎は激怒して掛かっていって仕留められる。つまり相手を全くの視野狭窄に追い込んで勝ったのです。
 この視野狭窄を生き延びる為に使った人がいます。『夜と霧』のアウシュビッツに強制収容されたフランクルという精神科のお医者さんです。奥さんの事や自分の将来の事を考えないために、直前の事例えば次の食事や一番必要な靴の針金などの事を考えることで自分を視野狭窄に追い込んで、より大きな不安を視野に入れないようにすることで、自分を救いました。
 吉本隆明さんが最近『幸福論』などを書いておられますが、歳がいけば幸福は小刻みにしなければならない。大きな幸福なんか考えたらイカンということで、今晩のご飯が美味しかったらそれほど幸福なことはない。小さな幸福に満足していれば生きるささやかな力が得られるのと書いていらっしゃいます。期待して待つというのは殆どの場合、成就しません。いいことを待つわけですから、人生そんなに良いことばかりでなく、大方は待ちぼうけで終わります。
 ここで現代でも辛い待つ例として、一番好きな人に去られる、そして戻って来るのを待っている場合をあげます。好きな男と出ていった女とか、地方の大学などへ煩い母から去った息子などですが、この例は期待して待つのが本当に待つことぢゃないということを教えてくれる例ですね。「待っている」という顔をしたら絶対に戻って来ません。それがうっとおしいから出ていく訳です。(笑い)悲しい顔して「早く帰ってきてね」とか言ったら絶対離れていきます。(笑い)こんな明確な心理はありません。待つという心理は「待ってはいけない」と自分に言いきかせる、待っていても相手に待っているそぶりを見せてはいけないと自分に言いきかせるところから始まるのです。
 期待して待っても、待っている態度をチラッとでも見せてはいけない。報われることを願わないで待つことを始めるのですが、こんなシンドイ事はないですね。待っている人が帰ってくるかどうかは、自分ではどうにもならないと思い定めて待つためにできることは、自分が待っていることを忘れる事ですね。多くの人は、たとえば音楽の装置は押入にしまう、自分の感情移入するかも知れないテレビドラマは見ない、など感情を高ぶらせるものを外して静かにしていて、ようやく時には忘れることができるようになりますが、肝心の事は解決していないのです。そこまで細い道を無理なことをしている自分が哀れになり、自分の存在を消したいけど消せなくてということを、人生なんども繰り返し経験することで、ようやくしぶとくなって期待することなく待つという妙手というか、コツみたいなものを手に入れていくのじゃないかと思います。
 待つ事のつらさしんどさが共有されなくなったには理由があって、現代の職業が待つ事を禁じるというか、必要としなくなったことです。第一次産業の農業にしても漁業にしても待つことができないと稔りも魚も待つことをしないと入手されません。自然を相手にしている職業というのは待つ事にその確心があるわけです。ところが現在は大半の人が第二次産業や第三次産業に携わっているのですが、作るという職業はおっとり待つのではなく、効率的にたくさん作るというのが他へ勝つ秘訣になってきます。第三次産業になるとトレンドを読む、流行の兆しを読むということが大事になってきます。おっとり待っていてはいけない。第二次第三次の仕事のを表現する言葉というのには共通点として全部プロが着きます。プロというのは先にとか前もってという意味です。プロジェクトを立ち上げるために利益(プロフィット)の見込み(プロスペクト)を考える。見込みが立てば計画(プログラミング)を立てる。生産(プロジュース)、販売促進(プロモーション)。商品が売れたらお金の回収、約束手形(プロミス)で回収できたら計算をして、儲け(プロフィット)があったら会社は前進した(プロブレス)。リーダーの人に昇進(プロモーション)が待っています。気味が悪いくらい全部プロなのです。人は未来にむけて目標を設定し前のめりになって掴みにいく。一歩でもひとより早く目標に到達することを目指す。目標から考えて今すべきことを考えるという前傾姿勢が、近代産業社会のありかたですからそれが教育にまで浸透している。浪人はしてはいけないとか大学に入るために先に私立に入っておかなければというのが保育園の選択からお母さん方は必死になっています。第一産業にあったような果実がたわわに稔り落ちる寸前までの姿勢を待っていたら絶対に社会の敗残者になってしまうという社会になってきました。


 物書きの私たちの営みは第二・三次産業でもないので、現代の希少品種というか待つということに慣れていらっしゃるのではないですか。谷川俊太郎さんが「詩を書くということは、ことばがどこかから降り落ちてくるのを待つということだ」と何処かに書いておられたように思いますが。私の場合はこのごろ、原稿は締め切り日が来ないと書きはじめないという(笑い)編集者泣かせになってきています。これするといいもんが書けるんです。(笑い)テーマを貰った時は、その時に思いつくことしか書けないけれど、〆切まで二ヶ月あるとするとその間、あえて書きはじめないのです。そうすると、原稿の事が頭にありますので、予期せぬアイデアやエピソードに出会うのです。それで〆切になって書き始めると当初よりずうっと厚みが出てくる。たまたま少し早く書いた時も寝かしておくのです。〆切まで寝かせておくと色々削除したりしますので、物書きは第一次産業に近いような気がします。要するに今の私たち第二次産業、第三次産業のマインドに染まっているところのあるこの社会では、物事を長い目で見るとか、機が熟するのを待つとか、時が満ちるのを待つという感覚が忘れ去られている。農業でも温室で促成栽培したり、漁業でも養殖などをしますから、待つという観点からいうと詩人は貴重な人種になっているのではないかと思います。(笑い)
 命を相手にする産業はやはり特に待たなければならない。命は思い通りにならない。自分ではどうしようもない、願いが成就しないという思いがふくらんでくるのが日常のようなものと思います。子育て中の親御さんや教育に携わる人はまさに生き物を相手にしているのですから長い目で見る、機が熟すのを待つ、時が満ちるのを待つというマインドを失ったら絶対に子育てや教育は歪んでしまうと私は思っています。では、どうしたらいいのか。つまり待つというのは不可能に近いですね。期待したらいけない、待っていることを意識したらいけない、その人の事を忘れてもいけないという「期待しないで待つ」などは本当に可能なのか。これが待つという事を考えるときの次の問になります。
 この問に答える事は非常に難しいです。待つことなく待つというのは奇蹟のようなことで、例えば画家がひとの顔を描くことが奇跡的である事に似ています。対象物としての顔は描けるけれど、顔は実は見えるものではないのですね。目と目があってしまうと鳥もちでくっついたようになってしまってそれを対象として観察する距離が保てませんから見られない。毎日馴染んでいる顔であっても耳のかたち唇のかたちを答えられる人は少ない。顔はひとつの気配のようなものなのです。その自分に触れてくる、生きた顔に触れるのは至難の業です。
 顔という見えない現象のようなものをつかまえるのに一番苦労したのはジャコメッティです。彼は人のポートレートを描いていくのですが、ぼく等素人からみたら「そっくりや」と思うような形があらわれたら「これは顔ではない」と消すのです。またバックを塗ったり黒い色をぬったりナイフの先で白い線を入れるのですが、それが我々の知っている、いわゆるポートレートになってしまうと又「顔ではない」と消して書き直すのを延々と何ヶ月もしたのですね。そのジャコメッティが絵画を通して顔に触れるという奇跡的な瞬間を必死で画面に定着しようとしたぐらい大変な事なんですね。それと同じくらい大変な事が「待つことなく待つ」事なのです。


 何故かは分からないのですが、次の二つの方向から「待つことなく待つ」ということがどれほど人間にとって根元的な大切なことかわかります。
 人間だけが対象への意識、自己意識という意識を持っていますが、一つは「待つ」という事はほとんど意識を持つということと殆ど同じか、等しく根元的なことなのです。理由は、意識というのは「今ここにないものに思いを馳せる」という形によって初めて可能になるからです。例えばお母さんというものに意識が可能になるには、お母さんがここに居ても居なくても同じお母さんだと理解することが母への意識を持つという事です。
 祈りや期待や不安はまだここにないものへの意識、後悔や思い出は今すでにないものへの意識です。意識を持つというのは不在のモノに関係づけるということなんですね。怖いのはひょっとしたら人間は認知症がとことんきつくなって初めてかろうじて待つことなく待てるのじゃないかという事なんです。何故かというと、意識がある間は未来という不在や過去という不在と絶えず関係づけて、祈りや期待が生まれるのです。その限りでは期待せずに待つということは不可能な業である。
 フォスターというイギリスの作家の孫引きによりますと「人生の時間は三つに分かれる、若いときは年代毎に物事を覚えている、初老になると物事の先と後だけが分かっている、認知症になると、時間の遠近がなく、一枚の絵画のなかにすっかり並ぶ」幼稚園の時は克明に覚えているが結婚した夫のことはすっかり忘れていて、という現象をピクチャと言っています。その認知症の時こそ人は待つことなく待つことができるのではないか。人は期待したくても期待できない情況に陥った時にこそできるようになると思われるので、我々にはまだ無理なのか?(笑い)
 もうひとつ大事なことはジャコメッティくらいの苦行をしなければならないかも知れない。生きている私たちにできるひとつの事は、待っているのではなく待たれている身と考えを逆転させるといいですね。つまり、待っているのは苦しいから自分の事ばかり考えるんですね。あるとき、自分も待たれているのではないかと、心の反転が起こることがあるんです。壇一男が書いている太宰治の話の中に出てくるのですが、彼が金を持って出ていった太宰治をずっと待っていて、ついに彼を突き止めた時、太宰治が言ったんです。「待つ身が辛いかね、待たれる身が辛いかね」待つ身より待たれる身がつらいんだぞという太宰治の言い分で、壇一男はカチンときたわけです。
 でもここにはひとつの真実があるのではないだろうか。つまり、私たちは「待っている自分」と、自分の事ばかり考えますが、待つという事はそんな自分を除外しなければならなかったのですね。僥倖のように待つのが本来の待つですから、逆に今まで気付かなかったけれど何かを訴えていたことに自分は応える責任があった筈なのに気付かなかったのではないか。そういうかたちで「自分もまた誰かに待たれている身なのではないか」と思うことです。そういう時「Can I help you」なにか私にできる事がありますか?と待たれる者としての応答を回復する、魂の反転の瞬間が私たちにはあるんじゃないだろうか。キリスト教の人は神に祈って、自分は何かをするべく待たれているという意識が強いのです。自分にしかできない職業、天職を彼らはコーリングと、つまり神にそれをするべく呼び出されていると考えています。
だから待たれる身として自分を捕らえることに慣れていらっしゃるようです。ボランティアとか寄付行為などは昔から文化としてやってこられました。
 フランクルは「強制収容所で、身体が弱くても誰か待たれていると思った人は生還できたが、希望を持った人が一番先に壊れた」という言葉を残しています。これは太宰治の「待つ身が辛いかね、待たれる身が辛いかね」の言葉と並んで我々に非常に深いものを教えてくれているのじゃないかと思います。

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