有馬 敲・おはなし    2009年9月27日   場所:京都健康保険組合保養所「きよみず」(ホテルグラン京都清水)

「詩の未来」資料   


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京は九万九千くんじゅの花見哉
奈良七重七堂伽藍八重ざくら
名月の出るや五十一ケ条
蚤虱馬の尿する枕もと
涼しさを我宿にしてねまる也


A
不易流行
変化するものは趣味性のみ。詩それ自体の本質は永久に不易である。趣味性の変化を見ることから、詩の本質する精神を誤る勿れ。


文学の未来
「読む」ということは、かなりの努力を要する仕事である。人々は印刷に書かれた符号を通じて、意味を脳髄の理解に訴え、自分の力で思想を構成して行かねばならぬ。これに反して「視る」こと「聴く」ことは、遥かにずっと楽である。なぜなら刺激が感覚を通じて来り、自分で努力することなしに、他から意味を持ちかけてくるから。
 ところで今日のような時代、人々が皆過労して居り、能力を費消しきってる時代に於ては、読むことの努力が一層煩わしく感じられる。今日のような時代に於ては、美術や音楽だけが歓迎されて、文学は自然に一般から敬遠される。特にまた活動写真が、文学の広い領域を奪ってしまった。今日の時代に於いては、ただ新聞だけが読者を持ってる。しかもその新聞すらが、次第に「読む」ことの煩瑣を嫌って、視覚を本位とする写真画報のグラヒックに化そうとしている。今日最も事務的な「忙しき人々(ビジネスマン)」は、たいてい新聞を読む代りにラヂオを聴き、時間と能力の節約を計っている。最近或る米国人は、テレビジョンの完成を予想しつつ、大胆にも次のようなことを公言した。近い未来に於て、新聞というものは廃滅する。現に今日に於てさえも、既に時代遅れになりかかっていると。新聞にしてそうだとすれば、文学の如き、全く古色蒼然たる旧世紀的存在にすぎないだろう。
 文学の未来はどうなるだろうか? おそらくそれは、決して亡びることは無いだろう。しかしながら今日以後、それは大衆的普遍性と通俗性を失うだろう。そして学問や科学の文献と同じく、静かな図書館に一室に引退して、特殊な少数の読者だけを求めるだろう。文学それ自体としては、却って質的に進歩するかも知れないのである。


B
断絶と失語(ディスコミュニケーション)から出発すること。言い換えれば「ゼロ」から創り出すこと。そこにどうやら文学の蘇りと更新のモチベーションはあるらしい。しかし、このような「ゼロ」回帰から「新しい文学」となって結実するまでには、長い模索の時差が必ず生じる。だから、五、六〇年代の「新しい文学」であった戦後文学が一九四五年の敗戦を出発点としていたように、八〇年代の「新しい文学」も六、七〇年代のサブカルチャーの洗礼と前世代との断絶という転換期を出発点としていた。
 このように考えてみると、今日の我々の眼前の「断絶」と、そこから生まれる「新しい文学」への想像力が、具体性を帯びてふくらんでくる。


C
いずれにせよ、一瞬に閃いたことばを形象化して永遠なものにすることは、口承された歌謡の時代から地下水のように現在まで流れてきたものであり、その時の精神をいかに未来の詩の流れにみちびいていくのか、という考え方につながります。それはあるいは、今日、「現代詩」と呼ばれている常識的な作品とは別の場所に向かっていくのではないでしょうか。


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