おはなし「詩の未来」 有馬敲

2009年9月27日・関西詩人協会主催イベントのおはなし
場所:京都健康保険組合保養所「きよみず」(ホテルグラン京都清水)


皆さん、こんにちは。有馬敲です。きょうは「おはなし」ですから、「講演」と違いますからお手柔らかに願います。お手元に「詩の未来」という資料二枚刷りを皆さんにお配りしています。

 @ここに五つの俳句が並んでおります、僕は俳句の通ではございません。これはまことに失礼ですが、きょうの話題として皆さんにお尋ねしたいのは、これは誰の作かということですが、分かりますでしょうか?このごろはテレビもクイズ番組が流行っていますけれども。僕は俳句はずぶの素人で、まれに作ったものは日記に書いている程度です。しかしこれをもし、ご存じの方がありましたら手を上げてくださいますか?

@京は九万九千くんじゅの花見哉
奈良七重七堂伽藍八重ざくら
名月の出るや五十一ケ条
蚤虱馬の尿する枕もと
涼しさを我宿にしてねまる也


 以前、京大のフランス文学者の桑原武夫という人が、一九四六年に「俳句第二芸術論」という文章を書いた事があります。『世界』という雑誌にね。そこに戦後の俳句で有名無名の人の俳句を並べて、これは誰のか分かるかと言って謎をかけたら、誰のか分からなかったんです。で、俳句というのはだいたい、個性もないし当時の封建的な組織で、だれかの主宰する結社があって出遅れていると言うたことがある。
 その翌年、一九四七年には小野十三郎の『詩論』というのが出た。これは戦時中に書いたもので、その当時は、有名な短歌的抒情の否定を主張した問題提起の詩論でした。そういう意味で、京都、大阪は戦後文学界の問題提起の場として活況を呈していた。べつに僕は桑原武夫の「第二芸術論」をまねしたわけではないんです。皆さんご存じの方もおありでしょうが、能ある鷹は爪を隠くすで、ちょっと手を上げるのは躊躇されたと思いますが、この句はすべて松尾芭蕉の俳句なんですね。きょうは俳句の「解釈と鑑賞」ではございませんから、かんたんに申しますが。

京は九万九千くんじゅの花見哉

 これはなんじゃいなと思うほどですが、じつは芭蕉が生まれた17世紀中ごろはですね、俳句というよりは俳諧と言われた時代ですね。俳句と言われだしたのは、正岡子規が明治の中頃に革新を唱えだしてから俳句と言っているのですが、芭蕉のころは俳諧と言っていた。俳諧というのは短歌の五七五七七から七七を取って五七五としている。そこに独立した発句というものを作った。
 この第一番目はあまり細かい説明する時間がありませんが、貞門俳諧といって、いままでの古典の言葉を取り入れて作ることが多かった。九万八千という古い言葉があるのを九万九千と読み替えてくんじゅとして、言葉遊びをやったんです。いまで言う頭韻、英語でいうアリタレーションです。これを芭蕉がやったのが1666年、22歳のときであります。
 芭蕉はそもそも伊賀上野の生まれで、地侍の次男坊に生まれて19歳で藤堂家の台所に勤めながら京都大阪の俳句を勉強しとったんですね。言葉あそびをしていて、その後、29歳の時に江戸へ行ったんです。
 当時の俳諧は、貞門俳諧といって京都を中心に言葉遊びが盛んだったんですね。大阪には談林俳諧といって、それは珍奇な表現をするという流派だった。井原西鶴なんかは一昼夜で23500を作ったという記録が残っているようです。その後、芭蕉は、江戸へ行って

奈良七重七堂伽藍八重ざくら

 いう作品を出していますが、まだ貞門俳諧の続きみたいなもんです。で、「いにしえの奈良の都の八重桜きょう九重に匂いぬるかな」というような短歌を背景に作ったような俳句だったんです。ところが芭蕉はその後、水道事業の事務員をやりながら自分は俳諧師になろうとして、二年か三年でその目標を達成したんですね。

名月の出るや五十一ケ条

 これはいままでの貞門俳諧と違う談林俳諧の形になっています。というのは単なる言葉あそびではないんです。五十一ヶ条というのは鎌倉幕府の北条氏、その時代にできた憲法なんです。聖徳太子の十七ヶ条というのは604年にできまして、その後、日本には鎌倉政権の時五一ヶ条というのができたんです。これをね、いま風にいうと、まあ「日の昇るや日本国憲法第九条」といったあたりですか。つまり談林俳諧というのは思い切った、単なる優美な言葉遊びではなしに、ひとことで言えばモンタージュ手法ですな。いまの詩人たちは、たとえば四季派などが好きな方で、永遠性や純粋性を尊ばれる方は、突如として憲法九条なんて出てくると非常に警戒するわけです。「わしは政治とは関係ない」と。ところが芭蕉の句にはちゃんと収まっています。次に、

蚤虱馬の尿する枕もと

 尿をシトと読みます。これは有名な「奥の細道」に出てきます。つまり「奥の細道」というとね、「夏草や兵どもが夢の跡」とか「閑さや岩にしみ入る蝉の声」とかを思い出しますね。「月日は百代の過客にして…」とそういうふうに教科書で習っている芭蕉像があるわけですが、実際に「奥の細道」を見て行きますと、「蚤虱馬の尿する枕もと」これはね東北へ行って木賃宿かなんかで蚤や虱のいる布団で寝とって枕元では馬がオシッコしているということで、これも芭蕉の句にしてみれば「荒海や佐渡によこたふ天河」とかの美しい句の旅のホントの姿、美しくない言葉を残しているんです。この句はわざわざ芭蕉が「奥の細道」の旅中に詠んでおるのではなくて、帰ってから元禄五、六年頃に「奥の細道」を書く時にわざわざ後から書き加えたというんですな。いっしょについて行った河合曾良の控えには「蚤虱馬の尿(バリ)こく枕元」つまり「バリこく」というのは馬や畜生が、小便するちゅうことですな。芭蕉の句の解釈や鑑賞を見ると、後代の解釈は、美しくするためにシトするとした、「尿前(シトマエ)」という地名があるからこうしたんだというけれど、僕はむしろね、曾良が控えたバリこくの方が、卑猥な言葉の方が本当にその蚤や虱がおるところにぴったりするなぁと思う。今まで国語とかで美しい日本語という先入観念でいえば「シトする」となるんだけど、「バリこく」と、つまり馬の小便するという事ですね。美しい日本語という時に、卑猥な言葉を使うちゅうことが芭蕉のころにすでに残っているんです。次の

涼しさを我宿にしてねまる也

「ねまる」という言葉は寝てまるくなるということではなくて、尾花沢の「くつろぐ」という方言(生活語)を取り入れたものです
 だいたい、共通語とかいうのが出たんが明治期でしょう。明治期になってみんなに、共通語を使う訓練をされた。方言を使うなとした。それまでは、百姓の言葉、武士の言葉、儒学者、僧侶、町人などの言葉、それぞれまちまちであった。それが、生活する言葉として生きていたんですね。それなのに、共通語を使うということには功罪はあるんです。明治以降、近代文明が外国列強と伍して行くためにはどうしても言葉を統一して負けないように外国語の翻訳もして、ずっときた。そして日本が近代国家として成立していったという功績は多大なもんだ。しかし言葉の面でいうとそのブルドーザーで方言とかいわれるものを統一するということは非常に問題があったという考え方ができるんです。一例として芭蕉のことは中学高校なりで習われたと思いますが、芭蕉の「奥の細道」を開けて見ると私たちの知らん俳句が使われていて、現代でこそ俳聖と言いますが、芭蕉自体は詩人としていままであった言葉の革命を起こしたと考えたいという意味で、ここへ@をした次第です。
 芭蕉は「奥の細道」の最後の方で「不易流行」ということを言っています。不易流行というのはすでにご存じの方もあるでしょうが、不易、すなわち詩は永遠的なものだ、しかしその時その時の流行がある、それをうまく表現するのが俳諧だと説いています。これはずっと詩の概念を考える場合に必要じゃないでしょうか。
Aにうつります

A不易流行
変化するものは趣味性のみ。詩それ自体の本質は永久に不易である。趣味性の変化を見ることから、詩の本質する精神を誤る勿れ。

文学の未来
「読む」ということは、かなりの努力を要する仕事である。人々は印刷に書かれた符号を通じて、意味を脳髄の理解に訴え、自分の力で思想を構成して行かねばならぬ。これに反して「視る」こと「聴く」ことは、遥かにずっと楽である。なぜなら刺激が感覚を通じて来り、自分で努力することなしに、他から意味を持ちかけてくるから。
 ところで今日のような時代、人々が皆過労して居り、能力を費消しきってる時代に於ては、読むことの努力が一層煩わしく感じられる。今日のような時代に於ては、美術や音楽だけが歓迎されて、文学は自然に一般から敬遠される。特にまた活動写真が、文学の広い領域を奪ってしまった。今日の時代に於いては、ただ新聞だけが読者を持ってる。しかもその新聞すらが、次第に「読む」ことの煩瑣を嫌って、視覚を本位とする写真画報のグラヒックに化そうとしている。今日最も事務的な「忙しき人々(ビジネスマン)」は、たいてい新聞を読む代りにラヂオを聴き、時間と能力の節約を計っている。最近或る米国人は、テレビジョンの完成を予想しつつ、大胆にも次のようなことを公言した。近い未来に於て、新聞というものは廃滅する。現に今日に於てさえも、既に時代遅れになりかかっていると。新聞にしてそうだとすれば、文学の如き、全く古色蒼然たる旧世紀的存在にすぎないだろう。
 文学の未来はどうなるだろうか? おそらくそれは、決して亡びることは無いだろう。しかしながら今日以後、それは大衆的普遍性と通俗性を失うだろう。そして学問や科学の文献と同じく、静かな図書館に一室に引退して、特殊な少数の読者だけを求めるだろう。文学それ自体としては、却って質的に進歩するかも知れないのである。
 
 この二つの文章は、誰のか分かりますか?尾崎まことさんに旧仮名遣いを現代文に直してもらって、ワープロを打ってもらいました。これが日本近代詩の頂点の一人である萩原朔太郎の「アフォリズム」に出てくるんです。その前の「不易流行」の文も朔太郎が芭蕉の考えを朔太郎なりに言い換えたアフォリズムです。これはいまから七十数年前の『絶望の逃走』の中にあるのですね。この萩原朔太郎の考え方は、当たらずといえども遠からじですが、しかしこれについては異議があります。というのは詩というのは単に作って黙読されるだけかどうかということ。こんにちの例えば自作詩の朗読とかいうようなことを萩原朔太郎はそこまで想定していなかった。萩原朔太郎の『絶望の逃走』の時代は1935年ごろです。当時の「文学の未来」だった。ところがその後、日本が第二次世界大戦(太平洋戦争)に負けた以後は戦後詩の時期で、皆さんはすでにもうそのあたりは知っておられると思う。
 戦前から戦後にかけて、モダニズムとか四季派とか、一方ではプロレタリアの詩があるんだけど、戦後も四季派やモダニズムの影響は多大でした。京都でも「詩風土」という詩誌を臼井喜之介が出した。現在でも詩の雑誌の題名は、フランス語を付けたり英語を使ったりの傾向が多いでしょ?それは良い悪いではなく、短歌や俳句と違って現代詩というものは外国に合わせて、ダダイズムとかシュールレアリズムとか、外国に追いつこうではないけど、それらの方法を取り入れていた。日本の近代国家が明治以降、外国に向かってやったと同様にフランス文学者や英文学者も同様に外国の方法なりを取り入れて来た。それは悪いことではない。僕に言わすと、大いにそれは良いことだ。ところが、冒頭に言ったように、すでに日本ではアリタレーション、語呂合わせなど、いろいろな事をやってきている。古きを訪ねて新しきを知るではないけれど、あまりここへ来て外国文学にいまだに影響されているという事には疑問です。僕もあちこち、おおげさに言うとたくさんの国の詩人たちと会って話をしましたけども、こちらが外国の詩人に学ぶのはいいけれど、まねごとのような追随するような事じゃなくて、ひとつのオリジナリティーは出せるというふうに思っています。で、戦後詩でも「荒地」グループがT・S・エリオットに影響され、マチネポエティックがフランスの詩をまねしたりヒントをえた。評論家の加藤周一さんの初期はフランスの詩に影響されたんだけど、それはそれで良いんですが、日本独自のものが今後は出せるという考えでおります。あえて言えば日本の俳句は諸外国に影響を与え、その底力は現代でもたいしたものです。
 詩について言えば、高村光太郎が戦争中、戦争に協力する詩を書いた。あるいは三好達治が愛国詩を書いた。そのため敗戦後はさまざまな面で詩というものが問われてきた。とくに吉本隆明は、日本の詩のそういうものの本質は何だったのかと、カリスマ的な存在の詩論家として論じてきました。
 ところが、1960年から七〇年代、サブカルチャーと言えば抽象的ですが、アメリカのビートジェネレーション、あるいはビートルズ、ここにおられる六〇年代のかたはビートルズの非常なファンもいらっしゃるでしょうけれど、そういう、いままでの伝統的な流れと別にサブカルチャーの視点、それを受け入れ。例えば小説家の高橋源一郎、村上春樹も入れましょうか? そういう新しい波が、詩の方でも若い人たちがやりだしたのはそれなんですね。そこから新しい波が生まれた。
 そして二十一世紀には何かといいますと2001年・9・11の同時多発テロ以後、0(ゼロ)年代と言われるようになった。つまり、これまでは戦後詩があった、そしてサブカルチャーのものがあった、そこへまた新しく0(ゼロ)年代が来た。そこでもう二枚目のところを見て下さい。Bです。

B断絶と失語(ディスコミュニケーション)から出発すること。言い換えれば「ゼロ」から創り出すこと。そこにどうやら文学の蘇りと更新のモチベーションはあるらしい。しかし、このような「ゼロ」回帰から「新しい文学」となって結実するまでには、長い模索の時差が必ず生じる。だから、五、六〇年代の「新しい文学」であった戦後文学が一九四五年の敗戦を出発点としていたように、八〇年代の「新しい文学」も六、七〇年代のサブカルチャーの洗礼と前世代との断絶という転換期を出発点としていた。
 このように考えてみると、今日の我々の眼前の「断絶」と、そこから生まれる「新しい文学」への想像力が、具体性を帯びてふくらんでくる。


 なかなか良いことを書いている。僕じゃございませんよ。誰が書いているか。黒板がここにありますので、名前を書いておきましょう。「清水良典」この評論家の名前にご記憶があるかどうか。奈良県出身で五十歳代、学生時代はフォークソングをうたい、ロックバンドを作ってうたったというひとの「文学の未来」という文章、あるいは同名の単行本が出ていますが、この中に書いてあります。現在の前衛の考え方としてはゼロから出発するという考えから来ているんですね。
 今日ここへ来られた方の中にはベテランの方もおられる、あるいは「我こそは前衛だ、講師の有馬敲よりワシの方がはっきり先鋭的で革命的だ」とおっしゃる方もいるし、「ただ単に趣味的に書いているんやから、そんな難しい話はいらん」というかたもいるかもしれませんが、「詩の未来」という話と結びつけると、清水良典さんの言うこのあたりがひとつの話題になるんじゃないでしょうか。
 戦前、評論家で小林秀雄というカリスマがいた。小林秀雄は近代の自我とか、モーツアルトとかドストエフスキーを論じていて、中原中也などとも交流があった。その評論家の影響力は戦中、戦後まで持ち越した。ところが戦後文学のオピニオンリーダー、カリスマ的存在の一人は花田清輝。このひとはアバンギャルド芸術を提唱し、岡本太郎などと「夜の会」を作り、詩とか画とか小説とかの狭いジャンルを取り払って、「将来的に映画とかミュージカルなどが期待できる」と主張した。花田は逆説的な、あるいはイロニーで、ペダンティックに古今東西の人物や文章を引用をして僕などは多大の影響を受けた評論家です。しかし、その後、戦争責任の問題で1955年代ごろから「高村光太郎ノート」あるいは「前世代の詩人たち」などで登場した吉本隆明と論争になったんです。結局、当時の全共闘世代、ご記憶にある方もあろうけど、1960年の安保闘争時代はこの吉本隆明がカリスマ的存在の一人になっていたのではないでしょうか。
 ところが、話は飛びますが、さいきん、吉本隆明は85歳になるのに「若い詩人の詩集をゼロだ」とかなんとか言いだしました。吉本隆明もさっき言ったように、新しい文学、漫画などのメディア芸術について行けなくなって、やはり清水良典とかさらに数人のオピニオンリーダー、そういう若い評論家の考えのところにきているんではないでしょうか?

Cいずれにせよ、一瞬に閃いたことばを形象化して永遠なものにすることは、口承された歌謡の時代から地下水のように現在まで流れてきたものであり、その時の精神をいかに未来の詩の流れにみちびいていくのか、という考え方につながります。それはあるいは、今日、「現代詩」と呼ばれている常識的な作品とは別の場所に向かっていくのではないでしょうか。

 私の考えはCに書いています。これは佐古編集長の「PO」の今年春号で、「詩の昨日・今日・明日」に「このころ思うこと」として書いた中のホンの後尾の文章ですが、「詩の未来」といった場合、いま書いている常識的なもので良いのかどうか、とくにベテランとかなんとかより四十、五十歳代の一生懸命に書いている詩人の中には良い人が居るなぁと思う。
 先日、東京で「詩と思想」の一色真理さんとある会合でいっしょにパネラーで出て議論したんだけど、吉本隆明がいまごろ出てきて何か言っているのはオカシイといった話をしていました。
 その後、ずっと考えていたんだけど、僕は、あの詩論家の吉本隆明に挑戦状を書きたくなってきました。挑戦状といっても理屈で言ってもいかんなと思っているとき、『詩人会議』から「新春作品号」に作品の注文が来ました。「よし、詩論家の吉本隆明への挑戦状のつもりで、詩をひとつ書こうか」と決心して一篇の詩を書いて送ったところです。『詩人会議』の方で没にされるとどうなるか分かりませんけども、これは僕の「詩の未来」のつもりです。
 吉本隆明の悪口を言う気はないんです。戦後の一時代を画した人ですから。しかし、僕の考えでは上半身だけの思想しかないんですな。つまり下半身というものがない。関西の方は下半身、吉本新喜劇など、どうですか。関西では吉本隆明より吉本新喜劇の方が有名じゃないですか。そこで、先日の東京のパネルディスカッションで話したとき、「吉本というと吉本隆明かばなな。僕の家内なんか吉本新喜劇で結構楽しんでまっせ」と言うて帰ってきたんです。そういう、皆が見下しているもの、サブカルチャーと馬鹿にされて思想がないみたいに言われ、そしてさらに、いまの若い人が書いているのは未熟で下手だというものを包含していかないけない。そして、冒頭に北村真さんが言った詩の朗読とか生活語のことを少しだけ申しますと、共通語に対して生活語というのを対等にしないかんと思う。時間的な流れのほかに、北海道から沖縄という地理的な要素を加味してひとつの新しい詩ができないだろうかと考えています。生活語を思いついてから、すでに四冊のアンソロジーが出ております。来年も出そうじゃないかという声もありますので、そのときはご協力お願いいただきたいと思います。
 詩の朗読で申しますと、日本語は表意文字と表音文字なんです。漢字は意味がある、ひらがなは音ですね。だから日本語の場合はオーディエンスに意味が伝わりにくい。そこらあたりが詩の朗読のひとつのコツです。僕らのやった「オーラル派」は自分の声で息切れしてでも読むという自作詩朗読です。ひとの翻訳された詩を読むのもよろしいが、それはほとんど呼吸が合わない朗読詩なんです。太平洋戦争中、高村光太郎の愛国詩を、アナウンサーや俳優が詩を読んだことといっしょなんです。だから、下手でも自分の言葉で、自分の呼吸で詩を読むというのがひとつのキーポイントです。

 さいきん、『古都新生』という詩集を出しました。ある新聞で「異色詩集」と取り上げてくれた。無視されるよりマシなんだけど、異色やのうてこれが本流だと思ってます。つまり生活語が本流で、共通語しか話せないのはかわいそうな人たちです。英国から国際交流で来て、挨拶の時に「グッドイーブニン」という。せめて日本語で「こんばんは」と言ってほしいですね。関西の人間は関西の言葉も話せる、共通語も話せる。まあ、小さな国の人ほど多くの言葉が話せますが、英語圏では英語しか話せない人が多い。その英語も日本人は学校で習う言葉を共通語と思っているけど、英語に共通語はありません。日本人が英語が下手な一つの理由は学校で習うのが共通語と思っているからです。英語はその国によって違う。例えばロンドンでは「サンキュー」、アメリカ南部に行けば「タンキュー」です。オーストラリアのタスマニアへ行けば「タ」です。つまり、英語というのも現場で生活している人と話すということをやらないと、受験用の英語が役に立たないはずです。 まだ話したいことがたくさんありますが、最後にひとつだけ短い近作を読みます。



キリマンジャロ   有馬 敲


週にいっぺん
キリマンジャロに行っとる
アフリカとちがうで
百万遍あがったとこの喫茶店や
モーニングサービスの定食が
三百五十円からあるけど
わしは二百円のコーヒーを飲むだけや
新聞は大新聞だけやのうて
スポーツ新聞もちゃんとそろえとる


出たとこの週刊誌は
月曜日に行くと取りやいになるさけに
火曜日か水曜日に行くことにしとる
マンガの雑誌もゆっくり読めるし
近所の客の世間話を耳にして
いろんなことがわかる
隣にタバコ喫うひとが座ると
煙とうてやりきれんけど
今日は競馬好きなあんちゃんが
菊花賞の予想を聞かしてくれた


学生もときどき見かけるな
留学生がはいっとる近くのアパートから
アジアやアフリカの若いもんがきて
定食を食いながら仲よう話しとる
キリマンジャロはおもろいで



 先日、東京へ行ったときにジュンク堂で観光ガイド用に詩集を買ってくれた若い女性から「百万遍のキリマンジャロはどこのあたりにありますの」と尋ねられたました。これはフィクションです。百万遍の近くでアフリカの地名がついた店をモデルにしました。(笑い・拍手)



有馬敲(ありまたかし)
1931年京都府生まれ、京都市に在住。京都銀行に勤めながら、雑誌『現代詩』などに詩、エッセイを発表する。1964年ごろから自作詩朗読を全国的に始め、オーラル派と呼ばれ現在に至るまでの現代詩をリードしてきた。主著『有馬敲詩集』『有馬敲集』全十五巻、『現代生活語詩考』に詩、小説、評論などを収める。詩は国語教科書に採用されているほか、高田渡などがうたっている。詩集『古都新生』は本年(2009年)発行。スペインの第五回アトランチダ賞ほか受賞。日本ペンクラブ、日本現代詩人会会員。関西詩人協会運営委員。

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