講演「世阿弥の先聞後見(せんもんごけん)を廻って」

            杉山平一



 大阪の織田作之助さんの、先生格であった藤沢桓夫さんは大阪で唯一の作家であるが、よく面白いお話をされるのですが、ある時東京で新進の作家が出て、ブツブツと文章を短く切る癖があるのを、ある批評家がそれを指摘したところ、その作家はできるだけ切らないで書くようになった。するとその作家はなんか魅力がなくなって落ちぶれていったという話をされました。癖は大事だが難しいものですね。また、『役者論語』という本にあったのですが、ある歌舞伎役者は膝を叩く癖があって、それを、煩わしいと批評されたので、その癖を出さないようにしたところ、だんだんと名声が衰えていった。という話がある。芝居は文学にもあてはまる。
 世阿弥の『風姿花伝』の中で『花鏡(かきょう)』の中に「先聞後見」(せんもんごけん)という言葉がある。まず聞かせて後、見せるということである。どういうことかというと、能ではまず泣くということを、謡曲で言い、その後に泣く仕草をするということである。先に仕草をして後に泣くという言葉を言うと、その言葉によって終わってしまう。言葉を先に聞かせて情景を見せると表情や情緒が伝わってくる。
 芭蕉が『奥の細道』で加賀の小松に行った時のことを書いている。多田神社の斉藤実盛の寂れた墓に行き、甲が傍に転がっていてキリギリスがないているのをみて
 むざんやな 甲の下の きりぎりす
と詠んだ。まず、むざんやなと言ってその状況をいう。きりぎりす(こおろぎ)甲になくやむざんなり では鳴き声がそこで果ててしまう。
また、若山牧水
 幾山河 越えさり行かば寂しさの
 はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく

きょうも旅ゆく寂しさよ と言ってはいかんのです。寂しさを先に言っておいて、今日も旅ゆくとすると、なるほどと思う。つまり言葉は抽象語、ですとそれで終わってしまう。そこに動作や、ものが出てくると、汽車の旅はずーっと続いていく。
小林一茶
 うつくしや 障子の穴の 天の川
障子の穴の天の川はうつくしや と言ってはいかんのです。これも先にうつくしやと言って、小さな穴から大きな星空を見る一茶としては珍しい句である。


 わたしはいろいろなことで苦労しまして、どうしたらいいか悩んでいたときがあって、その時、フランスのアランの『幸福論』を、癒されたいと思って読んだ。そして、あっと思った。「思想は筋肉に従う」。思想は闇の中で考えてもだめである。外に出なさい。歩きなさい、走りなさい、身体を使いなさい、動かしなさい。心はそういうもので出来ているのだと言っている。
 本屋で哲学の本を買って読んでみた。そのなかに「心はどこにあるか」という論文があった。心はどこにあるのか五百人の大学生に聞いた。男子で一番多かったのは頭にある、胸にあると。女子の学生の一番は胸にある、二番目は頭にある、それから胃にある。という回答が得られた。その学者は「試みる」「志」「魂」などの言葉を上げて分析している訳です。それを読んでわたしがなるほどと思ったのは、アランの言葉の「思想は筋肉に従う」という指先まで心があるということ。心ならずも真っ青になったり、びっくりしていないのに身体が心より先に反応したりする。なるほどそうだなとつくづく思う。


 わたしは、映画が好きで、百聞は一見にしかずというが、いくら説明しても、わからなかったのが、その図あるいは絵を見ていっぺんにわかったという諺です。映画の中で、この頃ノベライゼーションというのがあります。ノベライゼーションというのは映画に原作がないもの、「刑事コロンボ」など、映画を見てそれを小説にする。『刑事コロンボ』という本があるので、これが原作かと思ってみるとそれは映画を文章化したもので、つまらない。ところが最近になって、ノベライゼーションのほうが映画より面白いものが大分出てきたようです。それはアメリカ的な考え方によって、心理描写なしにやるハードボイルド、有名なカポーティーの「冷血」は監獄を満期になって出てくる二人の青年が、監獄の中でその金持ちの家を襲う計画を話しておったんですね。解放されてから豪農の家を襲うのだが、その家に現金が無かった、それで癪にさわって一家五人、全部殺して逃れていく。この小説は心理描写無しで、事実と物だけでずーと通していく迫力あるものです。
 アメリカでもヘミングウエイは「行為に表れぬ思想はない」と言っている。思想というのは必ず顔とか行為に出てくるものなんです。
日本でも俳句の阿波野青畝の 
 山また山 山桜また山桜
という漢字を並べただけの名句がある。こう何してどうやと言わないものが多いのです。俳句はカメラである。
芭蕉の、
 奈良七重七堂伽藍八重桜
という、名詞だけで書かれたものもある。
 聞かせて後見せよというのですが、ロシアのスタニスラフスキーという演劇の演出の人は必ずしも、「聞かせて後見せよ」ではなくて、もっと複雑な研究をしているが、一概には言えないですが、こういうやり方に私は感心しております。


 冨上さんが触れておられましたが、ダーウインはビーグル号で世界を回っていて、アフリカの先端の小さな村落を訪ねた時、蛮族で他のものを寄せつけなかったが、やっとダーウインの一行は上陸を許される。プレゼントとして赤い反物を酋長に渡すと、彼は喜んでその反物をびりびりと細く裂いて皆に分けた。皆、首に巻いたり装飾として使った。人間は装飾が先である、隠すために着るのではなく、飾るために着るということをダーウィンの説から述べる人が多い。
 先ほどの『幸福論』を書いたアランが、女の人の首飾りを、首を保護するため、刀を避けるための名残りで、腕輪なども腕を保護するためという説を述べている。背広腕のボタンやネクタイにしても皆そうです。実用のものが飾りになった。装飾というのは何もならないのでいい。先ほど冨上さんがお金にならんとおっしゃったことと同じことで、あのバラが胃の薬になりますよ、役に立つというとバラの値打ちは急に下がる。 バラの花は美しいから美しい。何にもならなくていい、役に立つというと喜ばなならんのですが、格が下がる。つまり話は横にそれましたが、美しいとか悲しいとか抽象観念語のあとに花や物をおくと生きてくる。まず『聞かせてのち見せよ』です

 
 話がちょっとずれてしまいましたが、明治に小泉八雲が日本に来て、小、中学校でダーウインの進化論を教えているのでびっくりしたのです。アメリカでは猿から人が出来たというようなバカな話は受け入れようとしない。それに比べ日本は進歩していると言っている。この前のノーベル賞は発見されて三十年、湯川さんのは二十年経って評価されている。ゆっくりしてますね。日本はどんどん取り入れている。日本が早く発達した所為でもあるんですが。
 夜行動物は動物学的にいうと、あれは異常ではない。光の中で現れている人間こそが異常である。生物学的に、そのようなことを聞いた。なんてバカなこと、モグラやミミズなどがまっとうだなんてと思いますが、宇宙は真っ暗です。それを聞いてみると、闇の中で生きるのが本当ではないか、と思ったりします。僕が歩いている、地球の裏のブラジルの人が立って歩いている、なんて有難いことだ。万有引力ですね。建物も落ちずにあるんですね。わたしは神様というのは本当は万有引力ではないか。地球の真ん中にいて姿、形はない、すべてのものが落ちて大地に帰っていく。帰っていくのは宇宙ではない。大地に帰っていく。外国は土葬するのでいいと思う。土に帰る、もとに帰る。日本は早く焼いて火葬にする。領土が少ないので仕方がないけれど、土葬にしてもらったらいいですね。人間は幾十百万の命を殺して生きている、死んだら、今度は虫とか鳥とかに殺される側になる。そういう循環であるべきではないかと思っています。
 話がそれますが、講演は聴衆が感心するのは、締めくくりですが、わたしは最初面白くて、後がだめということで(笑い)申し訳ないですが、そういうことで。聞かせて見せよというのが、私の信条である。それを申し上げたかったのです。  (拍手)
         (文字化:神田さよ・・・・校正:杉山平一 朱入れ:永井ますみ)
 
 
 
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