第7回詩で遊ぼう会
《煽てて落として》 in なにわ

とき:10月19日
ところ:大阪市中央公会堂・小会議室
大阪のど真ん中、大正時代ネオルネッサンス様式の 重要文化財で楽しみました。







企画・司会:白川 淑さん


秋晴れの今日、この素晴らしい中之島公会堂で、しかも京阪・中之島新線が開通した初日の佳き日に、「第7回詩で遊ぼう会」を持てたことを大変嬉しく思っています。
 先日のNHKテレビで、作家の五木寛之は「今までの五十年は躁の時代だったが、これからの五十年は鬱の時代に入ると思われるので、ガスを爆発させるためにも遊び心が必要である」と言われています。色紙には「凍河の時代を遊行する」と書かれていました。
 今日は皆さんもそんな遊び心で、一日を詩で楽しんで頂けたらと思います。
杉山平一代表の挨拶と詩の朗読
詩で遊ぶなんて不謹慎だと思われた方もおられたそうですが、オランダの歴史学者であるホイジンガーという人は「ホモ・ルーデンス=人間は遊びをする存在」だと言っています。
 日本人も遊ぶということを大切にしてきています。「お出であそばせ」、「外遊」、「遊学」などと言って、「遊ぶ」という言葉を「勉強」より上としています。
 例えば「薔薇の花は風邪薬としてよく効きますよ」と、役に立つと言うと値打ちが下がります。「薔薇の花は美しい」と言うほうが上です。
 また「遊びをせんとや生まれけむ」(梁塵秘抄)という歌もあり、私達は遊ぶということをとても大事にしています。
 今日は大阪のど真ん中ですので、大阪の橋と町を詠んだ詩を読みたいと思います。
〜自作詩「私の大阪地理」を朗読される〜」
はじめのことば:金堀則夫事務局長
今日は、第二部の参考になるかと思いまして「大阪府民カルタ」という、数年前に地域の人を案内したときの資料をお手元に配っていますので、後ほどそれを参考にして頂けたらと思います・
 この公会堂を南へ出たところ、栴檀木橋(せんだんのきばし)の傍に、三好達治の詩碑が建っています。この機会に是非ご覧になってください。
 杉山先生、關前市長、以倉さんなどのご努力で三好達治賞が作られて、三回まで実施されました。これには詩人・桃谷容子さん(故人)ご遺志の「桃谷容子基金」から援助を戴いています。
 この度、第4回目からの関西詩人協会賞は、この「桃谷容子基金」から後援を戴いて詩集・作品集賞を設立することが出来ました。
 この公会堂の前には關一翁の銅像もありますので、これもご覧になり、今日一日「詩で遊ぼう会」で遊んで帰ってください。

關淳一さんのおはなし「御堂筋はじめものがたり」


 三好達治賞といえば思い出すことがあります。第1回の選考委員会が市役所であったとき、私も同席させて貰いましたが、選考が終わった後の記者会見で、新聞記者から「市長、感想を」と求められました。私が「どういう意味の感想ですか」と訊ねると、「三好達治の詩は綺麗な日本語、分かりやすい言葉を重視していたと選考委員長が言われましたが、日頃市長の記者会見は非常に分かりにくいので、それについてどう思いますか」ということだったのでした。 それを聞いた或る選考委員の方が即座に「分かっていることを分かりにくく言うことはもっと難しいのではないのですか」と返してくださってピンチを救って貰いました。チョットした思い出です。
 今年九十周年を迎えるこの中之島公会堂は、皆さんもいわれはご存じと思いますが、大阪北浜の株式仲買商・岩本栄之助が、米国視察の後、米国では富豪が公共施設を寄付する習慣があることに感銘を受け、私財を投げ出して当時の百万円で大正七年に出来上がったものです。 しかし彼は、工事の最中に株の失敗で全財産を失い、完成を見ずして自殺しています。その日、彼は従業員を全員遠足に出し、午前中は身辺の整理をし、午後には写真館で自分の最後の姿を写し、夕飯を奥さんと食べた後、自室でピストル自殺を図ったのです。担ぎ込まれたこの近くの病院で、窓から鉄骨の組み上がっていく公会堂を眺めながら、息を引き取ったのだそうです。彼は決して公会堂への寄付を悔やまず「よいことをした」と満足していたようです。
 老朽化して取り壊しが計画されましたが、多くの市民の強い反対と修復のための寄付「赤煉瓦基金」運動が実を結び、免震構造で補強だけして、煉瓦作りの姿・内装をそのまま残すことになりました。市民の寄付も含めて総工費110億と新築出来るほどの工費がかかりました。煉瓦を1枚1枚はがし、また元の位置に正確に戻すためには、全ての煉瓦に番号が振られたほどの大変な工事でした。
 この中之島公会堂にはこうした大阪の人々の熱い思いがこもっているのです。それにしてもいいですね、煉瓦作りは気が休まりますね。残して良かったと思っています。
 さて御堂筋の話になるのですが、私の祖父・關 一(せき・はじめ)は東京高商(現在の一橋大学)で都市政策の先生をしていたときに、招かれて大正3年から助役、大正12年から昭和10年までは大阪市長を3期勤めました。そして昭和10年の1月に亡くなりましたので、私の生まれたのは昭和10年8月ですから、結論的に言うと面識は全くなく、これからするお話も人に聞いたものや本か資料で調べたものばかりです。
 大正13年に更正第一次都市計画法都市計画事業が許可されたのですが、この中には既に高速鉄道(4本の地下鉄)や、緑地構想などが盛り込まれていました。
 もともと御堂筋は巾が6mで淀屋橋筋と呼ばれる狭くて短い地道で、それを巾約44mに広げて梅田から難波まで延ばすだけでも大変なうえに、淀屋橋から船場一帯は昔からの商家密集地帯ですから用地買収に苦労しました。先祖代々の土地を取りあげられるだけでなく、広い道路が出来ると地価が上がるはずだからと、地価の上昇に見合う税金を上乗せしたのです。さらに地下鉄の新設を同時にしましたから、地下鉄開通に伴う地価上昇予想分まで税金として徴収したのです。受益者負担という考え方です。当然住民からは猛烈な反対が起こりましたが、未来に残る大きな町の財産という考え方に、町の人々は文句を言いながらもみんな払ってくれました。大阪人の良いところでしょうか。
 アメリカの歴史学者ジェフリー・ヘインズという人が、1982年に大阪市立大学に留学して、大阪市の歴史や關一の仕事を研究しました。市役所の書庫の膨大な議会の議事録からメモを取り、私の家の物置から出てきた段ボール箱の中にあった祖父の日記や手紙を全て完全に読みました。彼は、歴史学者というのは、表面的な記録だけではなくその裏にある人間の気持ちまで推測しないといけないと思っているようです。彼の二十年にわたるその研究成果は、2002年に英文で出版され、2007年に日本語訳『主体としての都市〜關一と近代大阪の再構築』(宮本憲一大阪市立大学名誉教授訳・勁草書房)として出版されました。  ヘインズの本によると、關一はそれまでの美観のための道路中心の都市計画を否定し、「住み心地良き都市を作るのが都市政策の私の目標である」と書いています。当時の大都市の問題であった労働者の住環境・交通アクセス・伝染病対策・大気汚染などに取り組み、住み心地良さを追求する社会進歩主義者だったと思います。事実、労働者のための住宅を建てたり、日本初の5階までのエレベータ付きの伝染病専門病院(桃山病院)を作ったり、大気汚染の実情を知るために街頭に白い布をぶら下げて汚れ方を研究したりしました。御堂筋を作るのが彼の中でどれほどの重要性を持っていたのかは分かりませんが、その構想は外国の都市の失敗例を参考にしたものの様です。
 先のヘインズが入手した市会の直接取材報告書によれば、「お前は何時から金持ちの利便性のために貧しい人を無視する市長になったのか」と追求されたとき、自分の全経歴を働く人々のために提供したかった彼は顔面蒼白になって「私は大阪市民の生活が良くなるということであれば、それが私の墓穴になっても致し方ない」と言ったそうです。ヘインズは最後に「社会進歩の企てのための新しい理想主義、關一が生涯かけて挑んできたものは未完の進歩主義に終わってしまった。そして伝染病は都市の恥部であると言っていた本人が、腸チフスにかかって死んだ」と書いています。
 關一の一番苦労したことは、現実とのギャップ だっただろうと思います。「後世の人が分かってくれるだろう」と独りごちていたとも書かれていました。



 
〜講演終了後、ボランティアですと謝礼を一切受け取られなかった關淳一氏に、感謝を込めて杉山代表から「星」という題の自作詩の色紙が贈呈され、關氏はそれを読み上げて披露してくださいました〜
関淳一氏に杉山代表から御礼の色紙贈呈
小川聖子さん
「さらば墓よ」
牧田久未さん
「ある日・あかし」
高谷和幸さん
「欄干の上のオレンジ」
司 茜さん
「某月某日」
武西良和さん
「秋・トイレ」
毛利真佐樹さん
「浮遊付着(部分)」
奥村和子さん
「末摘花・ふたつの愛」
左の奥村さんの写真にマウスをあてて下さい。顔が変わります。

二部司会 蔭山辰子さん
お茶を戴きながら『書きまひょ一行詩〜なにわの人情・風情をカルタ風に』

といっても即興で書くのはなかなか難しい
下に書いたのはそのときに出来たものですが。全部ではありません。
でも、各テーブルに一つずつ作るのかと思ったら、みんなちゃんと書いてはりますねぇ。

条件は「大阪のかるた」という事だったんですがねぇ。


詩であそぼう会 かるた 一覧

赤い灯青い灯 道頓堀に そえもん町/大安の日に/添う二人
朝霧や 蕪村ごのみの なにわ橋 頼んまっせ 楽しみな大阪にしてや 詩人さん
いらくさの あつき繁みにふみこみし
いちょう並木は恋の御堂筋 つまらん詩 書いてるよりは 孫の守
永久につづいておくれ 公会堂 手を合わす学力あげて 大阪天満宮
大川のわくらばの ゆくえに迷ってる
彼方から吹きくる風も/憩いたり 浪さわぐなにわの恋の 中之島
かるい心 君と御堂筋歩いたとき
北浜に君の面影もとめさまよう 待ち人は/中之島より 来はります
くる日もくる日も 上本町で学んだ頃 みんなが集う公会堂/大正ロマンふくいくと
けれども あの年 阿倍野で君と別れた もみじがもえる/中之島/スケッチにはげむシニア/の絵仲間
このたびは 心斎橋で君を見かけて やっと一枚 肥後橋がよいで 木版画
恋人の 散りたる秋日 レインボーパレード ゆらりゆらり記憶がゆれる/行つ帰りつ大江橋
暮れなずむ/はぜつりにもあきて/甚兵衛の渡し
さくやこの花/浪速の花と/ミューズかな らんらんとまなこ光って闇のなか/通天閣は/ジャンジャン横丁
詩を遊ぶ そのうち 陽はオレンジに
住之江に 往き交う小舟 秋日和
関(前)市長なんて色気のあるお人/今日来てよかったありがとう

『聴きまひょ 歌いまひょ 〜秋の歌・心の歌』

ソプラノ・白谷仁子さん ピアノ・竹中直美さん 熱心に聴き、一緒に歌いました

「あかとんぼ」
「秋桜」
「空き家の風鈴」
「里の秋」

アンコール
「大阪ラブソティ」


ピアノ独奏
ピアノの詩人・ショパンの「幻想即興曲」
おわりのことば以倉紘平さん
この部屋は上品でシックで、素晴らしいですね。
關淳一元市長は、この中央公会堂を修復されたときの助役さんで、三好達治賞も設立して下さった方です。ご祖父の關一市長が、後世の人が評価するとして、様々な妨害、脅しにもめげず御堂筋を拡張されたエピソードや苦労話をお聞きして、政治家としての姿勢の偉大さを考えさせられました。
与謝蕪村に、世界有数の商業都市であり、かつ演劇都市であった近世の大坂をうたった美しい句があります。〈朝霧や難波を尽くす難波橋〉〈朝霧や画にかく夢の夢の人通り〉というのですが、朝霧の切れ目に見え隠れする、長さ二百メートルをゆうに越える難波橋の夢のような〈橋上の雑踏〉に、大坂という都市の繁栄、殷賑はきわまっているというのです。橋の下には、水清く、水量豊かな淀川が流れています。この句には、どこかわくわくするというか、ピカピカの都市の匂いが感じられますね。關さんの淡々としたユーモアを交えた品のあるお話を聞き、私は文化都市大阪の再生、復興をめざして現代を生きる詩人たちは、力を合わせねばと改めて強く思いました。
本日はこのような落ち着きのある典雅な部屋で、關元市長のご講演、杉山平一氏の貴重な朗読、音楽家の白谷仁子さん、竹中直美さんのこの上なく素晴らしい演奏と歌を楽しむことが出来、詩で遊ぶ粋な催しもあって、大変有意義な一日でした。最後に企画して下さった関西詩人協会の白川淑さん、蔭山辰子さんに感謝申し上げます。


inserted by FC2 system