大谷氏朝日新聞で編集の仕事帝塚山大学の教授、後に学長をなさいました。
今は作家活動を中心に活躍されています。(司会:下村和子)

    講  演                                    
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期日:2007年5月20日
場所:大阪  

大阪上町の作家 織田作之助      
                          大谷晃一氏

 今日、皆さんが歩かれた辺りは織田作之助が生まれ育った土地でございます。
 織田作之助が育ったところは貧民街でありまして、今は普通の町になっておりますが当時は、路地裏の長屋がたくさんあった貧民街でございました。彼が異常に大阪臭のふんぷんとした作家として生まれたのは当然なことだと思います。
 織田作之助は大正二年一〇月二六日大阪市天王寺区生玉前町で生まれました、父は魚屋で仕出し屋もしていました。最初の家は谷町筋にありました。ここでは表の町で、ここで商売をしていました。
 お父さんは鶴吉お母さんはたかゑといいました。五人目の初めての男の子でした。お父さんが他人の借金の請け判をしたことで没落しまして、上汐町の路地裏の六軒長屋に逼塞してしまいます。日の丸横といいまして、角には日の丸湯というのがあって、それが大家でした。
 小学校二年生の時、表通りの酒屋の女の子に初恋をしますが、交際を厳禁されました。表通りと裏長屋では身分の差がございまして、交際を止められるのは当然の事であったのでございます。そういう風に最初から世間の風に当たっていたという事です。小学校の時、背が伸びまして、仮性近視になります。そこで子供達の遊びに加わらないで傍観しております。つまり、自分一人になって孤独第三者的な子供になったのは、差別と身分差がしみ込んでしまったわけです。
 四年生の時初めて優等賞を貰えなかった。作之助のかわりに優等賞を貰ったのは表通りの店屋の子供でございした。そこでかれは金持ちと貧乏人の差を思い知らされるのです。何かあると最後に「長屋の子」と馬鹿にされ蔑まれるわけです。そこで世間に対する疑惑と反抗精神が芽生えてきたわけでございます。
 反感怨念が彼の胸に芽生えてきた訳です。そうしてそう言う人々を小説の中で復讐します。ボロクソに書きます。「今に見てけつかれ」「出世せなあかん」「人をあっと言わせ見返してやる」というのが彼の強い性格になって、文学にも現れております。


 ところが、ここの日の丸湯の大家さんは、手が届かない身分差ではなく一寸出世をすれば表通りに出ることはできるのです。彼も元は表通りに居たわけです。店子と大家はそんなに酷い差ではないわけです。人生の流転というものは、淀川の水車の繰り返し廻っているようなものだと考えるようになります。大人の世界の真実を、子どもの時から体験し、観察をてしまったと言う錯覚に陥るわけです。早くから人生や人間を考え、早熟になります。思想や観念が身に付かない先に、自分の考え方だけが固まって来ます。もともと裏長屋には思想や観念はございません。規律や規則もございません。そういう世界に育ったから彼は、そういうのが世間と思ってしまいます。
 長姉の竹中タツさんが密かに、お金を出して進学することになったわけでございます。そして彼は勉強して、その頃の名門であった、高津中学に入学します。裏町の人々をあっと言わせたのでございます。そして自尊心が出て来ます。高津中学校でもあっと言わせるような奇声を発したり、意地悪な質問を先生にしたり奇矯な言動を行います。周囲とのズレが大きくなって参ります。一部の先生には睨まれるわけですが、鷲野先生だけは彼を理解し、才能を見つけたのです。鷲野先生は文学青年で自由主義者だった訳であります。これが彼の最初の恩人です。
 昭和五年お母さんが亡くなり、翌日、第三高等学校、現在の京都大学に当たりますが、それに進学します。これは更にあっと言わせましたね。高津中学校からでも、第三高等学校に入学するというのは並大抵のことではなかったからです。自尊心がいよいよ高まって参りました。


 第三高等学校というのは軍国主義の世の中でも、もっとも自由な学校でありました。 先年に三高の左翼が壊滅しておりました。そして転向の季節です。共産主義の本を読んだだけで警察に捕まるという時代でした。警察に捕まって彼らは拷問を受ける、そしてすぐに彼らは「もう共産主義は信じません」といって転向するわけです。目の前で行われる思想への不審を感ずるわけです。自分はそれらを見抜いたのだと、自尊心がますます強くなり、学校の正規の勉強をしないで、精神的な早熟、反抗、孤独という風な彼の人生が始まるのでございます。
 そういうことをやっているので成績が下がります。理由の一つは学校や友達への反抗と軽蔑です。二つ目は文学を志望し始めたことです。芝居を書き始めて学校の授業を馬鹿にすることになったのです。もう一つは当時から、かれは肺結核にかかったことがハッキリしてくるのです。
 昭和七年にお父さんが亡くなって一家離散したのに、学校へ行けるのは何でやという事になりまして、姉のタツさんが時々お金をくれていたものが夫にバレて、止められてしまいます。 彼には家もなく、流浪の思いが胸に宿ってまいります。
 戯曲をやり出したのは、三高にその頃有名な山本修二という教授がおりましてアイルランド戯曲を彼に教えたのです。彼は戯曲に熱中してしまいます。
 昭和九年の二月に彼は喀血しました、そして留年になりました。「病気、留年、お金がない、宿がない」決定的に彼の生活が崩れて、デカダンスに陥ってしまいます。
 一刻も早く世間に出て稼がなければならないと彼は追いつめられます。まだ学校の生徒ですからそれもできず焦って来ます。
 昭和九年一一月に東一条のカフエのハイデルベルグの女給の宮田一枝と知りあって恋愛をします。彼女はマスターに借金があるため、カフエの二階に暮らしているのですが、夜中に侵入して救い出します。そして同棲します。こんな冒険が好きなんですね。(笑)
 二人は同棲はしてもお金がありません。一枝は今度は銀閣寺道近くのカフエのリッチモンドの女給になります。そうすると彼は嫉妬に駆られるのですね。そうしてリッチモンドの向かいに下宿を移して(ザワザワ)一枝の行動を監視します。そうして心の中に湧きあがったのが「嫉妬」です。(ザワザワ)
 「海風」という同人雑誌に載せた戯曲『朝』は嫉妬というのがテーマになっています。一枝は古風な心持ちの女でしたので、彼は後になって彼女が死んだ後も嫉妬していた位でした。そして夜帰って来なかった一枝に嫉妬の余り、卒業試験を放棄します。(ザワザワ)彼は三度目の留年になりますが、当時の三高の規則によって、落第を三回したら放校といって退学の処分になります。欠席日数が百十日欠席、そうして平均点七二点。七二点は合格でありますが、日頃の生意気な言動が祟りまして、退学処分になる訳です。彼は長屋の子でありまして、規則の恐ろしさ、本性というものを知らないのです。育ったのが規則に縛られない町や家であったという事が原因でございました。
 後日『雨』という小説を書く訳ですが、ここに強く留年を主張した山谷という先生を悪役にしてウップンを晴らす訳です。(笑)あっと言わせた町の縁者や知りあいに軽蔑される訳であります。しかしまだ、劇作家として立っていく自信はありません。同人雑誌に載せても誰も褒めてくれない。
 そうして三高を卒業したとウソをついて、東京大学に受験をする振りをして上京しますが、タツの夫に見やぶられます。すごすごと大阪へ帰って参りまして、現在の帝塚山東三丁目にアパートで一人暮らす事になります。心は荒ぶれ果てて血痰します。友達は東京へ行ってしまった。孤独焦燥に駆られるわけです。
 病気が悪ければデカダンスに陥り、病気が小康状態であれば真面目になるという風な繰り返しをする訳です。三高でもそうでした、真面目な時は良友と交わり勉強や美術鑑賞や音楽を聴いたりと、真面目な生活をしている訳ですが、病気が悪くなるとデカダンスに陥って今度は悪友と交わる事に成るわけであります。悪友というのは大体、文学志望。学校へもあんまり行かない。(笑)そういう繰り返しでございました。
 こういう風な結核になりましたが、医者に掛かった事は一度もありません。医者に診て貰ったのは三高の校医に診て貰っただけでした。チャンとした医者に診て貰って、療養したと言うことは彼は死ぬまでありませんでした。


 ついにいたたまれなくなりまして、昭和一二年五月に上京致します。文学の修業の為には東京へ行かんとあかん。大阪ではだめだと姉のタツに助けて欲しいと頼む訳です。そうして東大の前の横丁に下宿するわけです。その名前は「落第横丁」(笑)といいまして、この横丁に下宿した人は必ず落第するらしいのです。
 そうして喫茶店に行って珈琲を飲むという「顔で笑って心で泣いて」ふうな生活をした訳です。下宿では戯曲を書いて、喫茶店で悪友とだべるという生活をしているわけです。お姉さんのタツは、ご主人に見破られる訳です、そして酷い仕打ちを受けているそれを見ていた一番下の妹が作之助に手紙を書いて来るわけでございます。それを彼は、喫茶店のトイレの中で読んで泣くわけであります。出てくると友達と冗談云って馬鹿笑いをする。つまり、顔で笑って心で泣く日常を送っていた訳です。
 そこで彼は文学に開眼を致します。それはスタンダールの小説「赤と黒」を読みました。これはどんな小説かというと、ジュリアン・ソレルという貧乏な家に生まれた美貌と才能を持った少年ですが、何とか上流社会に食い込みたいという願いを持っているのですが、まず最初にルナール夫人と恋愛をいたします。だんだんと上がって、最後にはマチルドという侯爵令嬢と知りあって恋愛に落ちるわけです。彼は「ジュリアン・ソレルはオレだ」と膝を打った訳です。(笑)これが俺の人生というものだと思ったのです。
 当時「綴り方教室」という本が非常に売れまして、芝居になりました、この少女の豊田正子 の書いた綴り方が売れまして映画になりました。主演は高峰秀子でした。彼は築地小劇場でみました。この時正子に扮したのは山本安英という女優さんでしたが、これは東京は江東の貧民街での実話を元にしているのです。彼は「これが文学というものだ」と思うわけです。 アイルランド戯曲を夢みて、自分の知らない事を書くのじゃなくて、 文学というものは自分が体験したこと、育った家や近所の人の事などを書くのだと理解したのです。 虚飾を捨て余計な観念を捨て、見たままに小説にするのが文学だと彼は悟るのです。


 彼は自分の育った路地を書こうと思うのであります。昭和13年に書いた『雨』という短編を武田鱗太郎に認められます。そして次々に自分と自分の周囲の人達、また彼の育った町のことを小説にして参ります。当時、胸の病気は小康状態でありました。そして大阪に帰って参ります。宮田一枝と結婚して日本敷物新聞というところや、日本工業新聞と大阪新聞の記者になります。南海の高野線に北野田の長屋に新居をもちます。『俗臭』は昭和一五年に賞にはなりませんでしたが、芥川賞候補になります。
 『夫婦善哉』を書きます。これはどういう小説家というと、二番目に千代という芸者になったお姉さんがおります、これが化粧品問屋の若旦那であります山市乕次と駆け落ちをして裏長屋に住みます。こういう事を事実のままに書いたものです。後に彼は全部作り事だ、ウソだと吹聴しますが、あれは本当は千代という姉さんの事を蝶子にして書いた全く事実だという事を発見したのは、実は私なんです。(ザワザワ)というのは私は織田作之助という伝記小説を書くために、当時別府に居られました千代さんに聞き書きをしました。そうしたらビックリしました。夫婦善哉と一緒だったのです(笑)千代の半生は『夫婦善哉』と一緒という事が分りました。あとの小説も点検をしましたら、全部ネタがある。彼の優れた小説は全部、事実であると分りましたが、彼は死ぬまで自分の小説は作り事だという風に言っておりました。
 改造社が出しておりました「文芸」に応募しました。川端康成は他の人を推薦していましたが、武田鱗太郎が強く推薦して、宇野浩二も賛成して「夫婦善哉」は文芸推薦とい文学賞を受け、織田作之助は小説家として世に出ることができました。
 川端康成はこのとき「下向きの表情があり若さと気品が欠ける、スタイルが古い」と言ったのです。これは大阪的な小説ですこれが、東京の文壇は気に入らず、おなじ事を言います。彼は折角ふくれ上がった自尊心を傷つけられます。ここで、大阪という意識を持つようになるのです。「東京がなんだ、俺は大阪の小説を書く」と居直るわけでございます。 この時にある人にスタイルが井原西鶴に似ていると言われる訳です。彼は西鶴を読み、西鶴に心酔します。昭和一七年に、西鶴の事を書いた『西鶴新論』を出しています。あの魚鶴のせがれが、こないになったんやと言いたくてしょうがない。彼はあの路地に行きまして、彼の小説が映画化されると映画の切符を持って播きに行くわけでございます。とにかく自尊心「今に見てけつかれ」にひとつの成果を得たということです。
 昭和一六年長編『青春の逆説』は、全部自分の青春の事を書いて、戦争に余り関係ない、セックスも今から思うと大した事ではないのですが発売禁止になります。戦争が進むにつれて、文芸雑誌は発禁の作家の発表をさせて貰えないのです。そうして彼はだんだん追いつめられるのです。
 昭和一九年八月一枝が子宮癌の為に死んでしまいます。後で聞いた、葬式を見ていた近所の人の話によると、柩にすがって号泣した作之助の声は今でも耳に残っているということでした。その時の気持ちを、彼は『高野線』という小説に書いております。この年、短編『木の都』『蛍』を書いています。
 ここが織田作之助の織田作之助たるゆえんでありますが、(ザワザワ)四ヶ月後に彼はもう一人の女性の輪島昭子と同棲するのです。(ザワザワ)軽佻浮薄を自称しております。この時に小説が書けなくなってNHKにドラマ『猿飛佐助』を書いたりしています。そして彼は自分はうすっぺらな人間であると「日本軽佻派」を宣言します。
 一九年に書いた小説『表彰』これもビックリ致しました。竹中タツさんにお聞きした半生にそっくりでした。彼は輪島昭子を別府の千代の元に疎開させます。彼はNHKに出入りしている内に、日本でも有名なソプラノ歌手であります笹田和子と恋に陥る訳でございます。
 戦争が終わる頃に書いた小説が『六白金星』『アドバルーン』でした。それまで彼が書いた小説は文芸雑誌には載らなかったのですが、戦争が終わったため、一挙に小説家として躍り出る訳です。その頃の流行作家は、織田作之助や太宰治や林芙美子でございました。


 彼は、笹田和子と結婚を致します。当時私は文学好きな大学生でございました。最初に彼を訪ねて行ったのは阪急の清洲荒神という処にある笹田医院に行きました。彼は笹田和子とそこで暮らしておりました。当時大阪は焼け野が原でありました。焼け跡にバラックが立つ程度でしたが、笹田家は入っていくと真っ赤な絨毯が敷いてある、グランドピアノが置いてある。これは如何にもブルジョアの雰囲気でありまして、隣の部屋で作之助はまだ寝ていました。起きてきて私と会ってくれたのですが、兎も角彼はブルジョア、ジュリア・ンソレルであります。(笑)つまりブルジョアになりたいと笹田和子の婿養子のごとく家に入って、そうしてブルジョアの生活をするという一つの夢を達成できたということです。彼は皆に、一流のソプラノ歌手である笹田和子と結婚したという案内状を書きました。
 ところが私が二度目に行った時はもう居ませんでした。(笑)つまり彼は追い出された訳です。織田作之助は夜通し起きて、朝になったら寝るという生活でしたし、起きても歯を磨かないようなええかげんな生活をしていたので、忽ち笹田家とは合わないことが分って参ります。彼は風呂敷一枚に原稿用紙と万年筆を持って家を出ます。しかしいまや彼は流行作家で売れている訳ですね、戦災から残った京都に参ります。
 私とはもう一回、富田林にありました竹中家で会いました。その時「三十過ぎて芽が出んかったら小説止めときや」とかね(笑)私に教訓を授けてくれました。彼は書き溜めをしていた『世相』『競馬』を発表します。


 九月に入りますと読売新聞に『土曜婦人』を連載します。読売新聞は当時東京にしかありませんから、東京に移って書きます。彼はいよいよ流行作家で、入った札を撒き散らしながら、血を吐きながら、坂口安吾とか太宰治とかの作家と遊びながら小説を書いていくのです。
 文壇の大御所といわれました志賀直哉が彼の小説を毛嫌い致しまして、彼の書いた『世相』を汚いと言って人間という文芸雑誌を投げ捨てます。それを伝え聞いた織田作之助は「志賀直哉が何だ」と反抗するのです。彼は『可能性の文学』を書いて志賀直哉をボロクソにやっつける訳です。志賀直哉をやっつけるという事は当時の文壇では誰もできなかった事です。
 『可能性の文学』を書き上げた後で彼は大喀血をして東京の病院に入院するのです。彼はいやだいやだとだだをこねます。彼が何故嫌がったかというとそこが「東京病院」だったからです。(笑)彼は東京と名が付く所は大嫌いでしたから。(笑)彼は大嫌いな東京病院で昭和二二年一月一〇日に東京において亡くなりました。彼は最後まで大阪に帰れませんでした。


 彼は大阪というものに拘りました。特に大阪の下町のものの考え方を、彼は貫き通しました。もう一つは大阪を書いたということでございます。これは戦時中、織田作之助を認めた宇野浩二が大阪へやって参りまして、新大阪ホテルという所で彼は会いました。宇野浩二は「いよいよ空襲が始まり、東京は焼け野が原であり大阪も第一回の空襲があった、そこで彼は大阪が滅びるのじゃないか、君は発表できなくても大阪というものを書きのこしてくれ」と言うわけであります。
 この教えを守って大阪を書きまくる訳です。かれの小説は全部大阪に関係がございます。大阪に生きる人々、町、特に戦前の町を書き残して置いてくれたのが織田作之助という人物でした。
 丁度八〇分が過ぎましたのでこれくらいで終わります。

                    レポート:永井ますみ



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