第5回詩で遊ぼう会

≪ハリー彗星の渦≫in やまと

○と き:2006年10月1日(日)午後2時〜4時30分 
○ところ:「やまと郡山城ホール」内 (рO743−54−8000)
     〒639-1160 奈良県大和郡山市北郡山町211-3 *会場内は車椅子可能です 
○かいひ:お茶代として1000円


司会:白川淑さん
開会の挨拶

関西詩人協会代表 杉山平一氏のことば

白川淑さん代読

郡山の会の美しい案内を戴きありがとう存知ます。小野さんの詩碑を目玉にしたアイデア誠に意味深く嬉しいことです。
小生足元ふらついて外出を控えていて失礼しますが、盛会を期待しています。



白川さんの挨拶
 (小野十三郎)先生は10年前10月の8日にお亡くなりになりました。お気軽に色々楽しまれる方でしたが、偶々この日に当たったこと驚いています。郡山に先生がいらした頃は金魚池が一つと藁の田舎家がポツンポツンとあったぐらいだったようです。小学校五年生の大阪に帰って行く時に、お友達が皆駅まで来てくれた。自分が電車に乗るやいなや、皆パアッと走ってしまった。どうしたんかと思ってたら、鉄橋の処で皆がワアッと送って下さったそうです。なんかね映画のシーンみたいやなって思ったんです。













を。











































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金堀則夫さん挨拶と
上の詩の朗読



 この詩は詩集『大海辺』に収録されています。寺島珠雄さんの作られた小野十三郎年譜から、部分的に用意していますので見てください。
 1915年、父の家に引き取られます。小野さんの自伝的エッセイ『奇妙な本棚』を読んで頂くとわかりますが、大和郡山での生活を「子供の頃私は、大和という土地がなんだか退屈で退屈でしようがなかった」という事を書かれています。また、実母にあった時のことを「この白い小さな手よ」という章に書かれています。  詩にあるハリー彗星の事ですが、1910年小野さんが小学校に入った頃に長大な尾を引いたと言われていますが、76年を周期としているので小野さんは1986年にも84歳で出逢い、一生に二度も見ておられるのです。珍しいでしょうね。 小野さんは冥王星をも心の柱として持っておられたのです。この夏、惑星から除外されたのですが、この『冥王星で』が1992年に出版されています。奥さんが亡くなられて独り暮らしをしておられた頃の作品を集めて作られたものです。「冥王星」という作品に/まだまだものを考える力は私にはある/それがなくなるとき私は冥王星で生きる/ という詩句を残しておられますが、例え惑星から除外されても、小野さんは冥王星で生きておられると思います。
 小野さんの話をすると尽きません。又関西詩人協会でも、こういう場を設けたらいいと思います。大和郡山で小野さんを偲びながら楽しい言葉の花を咲かせて下さい。


大和郡山市長・上田清氏挨拶

 折り紙の金魚はボランティアの方が考案して下さいました。
金魚は中国原産で500年前、江戸時代の後半に柳沢吉保の子供の代柳沢吉里に金魚の職人と一緒に来られたのだそうです。明治になって柳沢康暢という江戸時代最後の大名が沢山の武士が失業した時、その対策として金魚の養殖を始めたのだそうです。
 金魚、郡山高校の前身、銀行、紡績などを始めています。紡績工場は大変大きなものだったらしく、再開発の時に風呂の跡が見つかりましたが、女工が2000人位も居たらしいのですが、その風呂の深さが一メートル数十センチありました。彼女達を横たえたら入浴できないので、立って入るように作られたのではないかと言われます。
 「ただ一本の煙突」の詩碑のエッセイを書かして貰ったのですが、ビルもない田舎に、ただ一本高い煙突があって、その後に彗星が飛ぶなんていうのは今の姿からは想像もつかない風景です。是非、詩碑を見ていって下さい。
 このホールは六年ほど前の、前市長の時に出来ていますが利用率が非常に高くて賑わっております。金魚だけでなくこの地の人に稗田阿礼という記憶力の神さまみたいな人が居ました。それに因んで「記憶力選手権」というものを催しています。
 


自作詩の朗読

滋賀・北原千代さん
詩集『ローカル列車を待ちながら』より
「ゆうぐれビストロ」
原稿を見ないで、ゆとりの朗読。
ご本人に後で聞くと、緊張で震えていたそうですが。

京都・武村雄一さん
「花の下で」「泳ぐ女」「夜鳴く鳥がいる」の三篇
/花びらひとつ掴めば一〇〇〇円/
と言い交わす奥さんとの話がオモシロイ。
で、何枚掴めたのでしょうね。

小野十三郎氏のことば「花ひらく野に出ても敵は敵」の意味するものを時折考えている、とメッセージ。


大阪・佐古祐二さん
たくさん読みたいとの前置きで、
「何かが道をやってくる」「21世紀がやって来ます」「ブドウのクラスタ」「言葉」
「この道は」「あなたは行きますか」「パントマイム」の七作。
少し早口、言葉の切っ先が鋭い。
納得できることばは、また裏切られる言葉でもある。/言葉を大事にします/でも、大事にすべき言葉を知りません/(「言葉」より)
/この道はいつか来た道/ああそうだよ/赤い血の花が咲いている/(「この道は」より)


兵庫・神田さよさん
「初めての子」
もうじきお婆ちゃんになるんですという言葉が気恥ずかしそうに聞こえて好感。
この作品は自分の時の経験から書きましたというコメントでした。

和歌山・寺井裕子さん
「ブランコ」「飛び出した少女」「父」の三篇
歳を取って、幼子と命の引き継ぎがなされるような。
最近お父様を亡くされたとか、読んで居られるときもジンとしてるような感じでした。

三重・津坂治男さん
「こころごと」「バッタ君」「たましいだけ」の三篇。
たましいと肉体で生物が成立っているという考えに頷く。
「たましいだけ」というのは車に轢かれた猫のことを書かれたのですが、「私はたまたま後に通りかかっただけですよ」としきりに弁明。

奈良・森ちふくさん
「宇宙からのまなこになって」
小野十三郎氏との交流にもたくさん触れて話をされた。



野島正興氏講演

野島氏はNHKのチーフアナウンサーをしてこられましたが、現在は「NHKりんくう文化センター長」をしておられると白川さんより紹介がありました。

演題は「放送文章とふるさと語」

 













詩の尻取り


司茜さん
 大和郡山に住んで四十年になります、人生の大半をここに住んで、ここに終わろうと思っています。 
 小野先生についてお話が沢山でていますが、お母さんと別れて、三歳から十二歳までこの地で過ごされています。「この町はほんとうに退屈な町だ」と言っておられるのですね。ほんまに退屈な町なんかなとその頃に私が生きてた訳ではないので分かりませんが、退屈な町であったかも知れません。おかあさんに「心から愛情を持った事はない」と『奇妙な本棚』に書いておられますが、これはそうではなかったのじゃないかなと思います。
 一つだけ気になっている言葉をご紹介してこの郡山で開かせて頂いたことを憶えておいて頂きたいと思います。「私の母の如き生き方を強いられる女は、やはりもう一人も居なくならなければならない」この意味は今、一番みなさんにも問われていることではないかなと思います。子供が苛められ、母がそれに耐えるという言うことがさまざまなことであります。この地で開かれた意味を、私たちはもう一度考えてみるとよかったかなと思っています。
 四時半からボランティアの方に郡山城の小野さんの詩碑に案内して頂きます。また、幼いときお過ごしになった河村さんというお宅の側まで行って頂こうと思っています。
 また、この金魚は藤岡さんの言うボランティアの方が一つづつ折って下さいました。記念にお持ち下さい。


紙がテーブル毎に配られ、そのテーブル毎に詩を一作仕上げる方法で行われた。
題を求められたが、題のある作品と無い作品が作られた。


ハリー彗星の渦に言葉を流して

流れを汲んで通いし里

通う里にのこることば
“一本の煙突”のように
郡山一揆は 立ち上がらなかった


立ち上がらないのは農民ではなく猫だった

猫もそうだったが それより
赤衣の女人が金魚になるのは
人間と猫の叡智の謎であるか

田のあぜのきりぎしで
赤いかんざしゆらしながら
短い秋を泣いている  女人
折り紙で 幼い頃に縁側で 
遊んだことを思い出す

思い出の レモンの輪切りが

浮かんでいるティーカップが
出される食卓に

泳いでいるかのような
金魚の折り紙と

秋雨の降る窓
金魚の泪

金魚が泪ぐんでいる

るるるっと花が散り

ほろほろ鳥のなき声
水のあぶくが浮かんでいる
光と影

彗星が流れて

落ちた海の中

城址の影が広がった
郡山の金魚の目が光った

大和郡山の金魚
テーブルの上でおよぐ 秋しぐれ

あの城壁に生けこまれた
亡霊がさまよい出る

思い出すあの日 春 養魚池で泳ぐ金魚よ
浮いたり 沈んだり 散ったり
子供達と遊んだ あの日 あの時

子供の頃
夢中になって遊んだ金魚すくい
言葉をポイにのせて のせて
生きのいいやつ 泡ぶくぶくと

いつも 今度こそと 気合いを入れて
またも やぶれたり金魚すくい
輪っかをかざしてみれば 秋の空

         *ポイ=金魚すくいの網
しのび逢う 恋を

恋 なんと美しいひびき
金魚のような恋をしたい

秋の紅葉にふさわしい 金魚は 燃えるような 赤がよい

しのぶ雨にぬれる 紅葉の郡山城跡
レモンのすっぱさ
恋のすっぱさ

すっぱさを
知ったばかりの 思いがあり
知らない方が良かったのか

ああ 恋とは
すっぱいものだったろうか
甘いものとばかり おもっていた

甘ずっぱい ぶどうの種よ
きみの胸の頂き

頂の白壁も夕陽も 水面に映えて
青春の日は遠く
アナウンサー 野島さんの物真似は面白い

角栄 正芳 今はなく

だが 野島氏の物真似で
私の心に生き返る

原始生物 雨を受けて生きていく

時計の針が 何回も回って
原始の生物は 更に生き抜く

今は二十五時

秋の歌をみんなでうたいましょう
伴奏・蔭山辰子 リーダー・毛利真佐樹

「金魚のひるね」「七つの子」「もみじ」を全員で合唱する。

閉会の言葉

日高てるさん

 このまえ白川さんとも話しましたが「お勉強より遊ぶことが難しい」とその通りやと思います。こんなに楽しい会にして頂いてお礼申しあげます。
この間ね九月の五日に文学学校の私のクラスの人達と一緒に小野さんの詩碑の所へ行ってきたのです。そしたらね、郡山市がちゃんと竹の垣を作っていて、前よりも桜が一寸大きくなっていました。
 前というのは二十七年前で、小野さんも健在で聖子夫人と娘さん夫婦と行きました。小野さんも知らない(所在を?)寺島珠雄さんが役場へ行って調べてくる、それから奈良の粟田茂さんがカメラ取って来て下さって、織田喜久子、三井葉子、松本昌子さんと私が行きました。小野さんが育たれた台所町へも行きました。
 市に居られ吉田さんという人が「郡山」という写真集を出されて、トップに「ぼうせきの煙突」というのを出して下さっています。
詩碑には点や丸がなかったように思いますが、詩にはちゃんと付いています。

「ぼうせきの煙突」を朗読される。

小野さんの詩集の解説



校外学習として行った詩碑の前でもこの詩を皆で朗読しました。そして桜の落葉を拾ってきました。
よけいなことかも知れませんが、このあいだ二十二日に小野十三郎賞の選考に加わって来ましたが、小野十三郎賞にみなさんも佳い詩を書いて応募して下さい。余り小野十三郎らしい社会主義リアリズムというと小野さんの間口が狭くなりますので、できるだけ広げて、できるだけ大きな木に育てたいと思います。



ボランティアの方からの説明・戸田真知子さん


この後、小野さんの詩碑の所まで、その後河村さんの家までもご案内します。
 小野さんは明治三十九年(三歳)から大正四年(小学校五年)まで九年間、台所町に住んでおられました。昔はあそこが武家屋敷だったそうですので、小野さんが住んで居られた頃はまだその面影が残っていたと思われます。
明治四十年頃の写真を啓示される。
 ぼうせきの煙突と鋸歯状の建物は工場です。小野さんは七歳の時に夏の夜、この庭から「ぼうせきの煙突」の低い空に箒を倒立させたように立っているハレー彗星を御覧になって、昔の記憶に基づいて「ぼうせきの煙突」の詩を書かれたようです。
 上田市長がお話しましたが、その紡績工場は、昭和三十九年に操業停止になりまして、今は公団住宅が建ち並んでおります。その一角に「日本紡績」の碑があります。
 小野十三郎さんは少年の頃蒸気機関車が好きだったようで、度々郡山の操車場に行って柵の間から首を出して蒸気機関車が発着するのを御覧になっていたようです。それから義理のお母さんですが、よく大阪の巴堂の最中を持って人力車をガラガラ言わせながら訪ねてきたようです。
 『奇妙な本棚』に富士山の亡霊のような山が見える、と書かれてあります。これは国見山と言って六百八十bあります。
 詩碑ですが郡山城址には櫓は二つ復元されていて、そこにあります。

お時間のある方は是非御一緒しましょう。








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