第一回・文学散歩             主催:関西詩人協会

(この写真にも走る人が写っちゃった)


 2006年5月21日関西詩人協会の当日参加者44名は、環状線桜宮駅集合して、毛馬の閘門の辺り昔の毛馬村があったといわれる石碑を目指して歩きました。美しい皐月晴れの日曜日、淀川沿いはジョギングする人、自転車を走らせる人、釣り糸を垂らす人。綺麗になってきた淀川ではなんと稚鮎が掛るそうで、釣り人がキラキラ光る疑似餌を投げていました。河ではボートを漕ぐ学生達、手を振ってないで、もっと真面目にせいよ。
ひとりトランペットを吹いている若者もいて、青いテントを眼の片隅に認めなければ、この世はなべて事も無し、というところでした。

 石碑をみてからUターンして、リバーサイドホテルで昼食。
 これだけ歩いて軽く汗ばみ、やっぱりビールも戴かなくちゃ。美味しかったですよ。
 その後に、これ、以倉紘平氏の講義がありました。
 私はHP担当委員としての大役、いつもの通り、しっかりMDを持ち込み録音して、改めてゆっくり聞いています。ホテルの隣室ではカラオケ大会のような大音響の演歌です。氏は負けてませんでしたね、大きな声でお話が続きます。時々「眠たい方はどうぞ」という声が混じっています。イエイエ、私は居眠りなどしていませんよ。
 私は蕪村についての知識は余り持ち合わせていませんでした。昔、所属していた月刊近文の主宰であった伴勇さんが天満の出身であり、事務所が環状線天満橋と桜宮の中間点にあったので、淀川は身近に感じていましたが。伴さんの詩に淀川はよく出てきましたし。毛馬の閘門も出てましたね。
 この度のお話は、蕪村の近くにありながら帰ることのできない「郷愁」ということに話の重点がおかれてあったように思います。
 では、皆さまも御出席になられたつもりでご静聴下さい。(永井ますみ)

蕪村と淀川  以倉紘平 2006年5月21日

         


 大阪天満の八軒家から京都の伏見まで、30石船がありました。蕪村は毛馬の生まれです。20歳頃には毛馬から離れます、蕪村は私生児です。父は村長です、戸籍簿には郷民が斜線で消してあって、良く分かりません。 毛馬の周辺は町で使われる菜種油を採るための、菜種の収穫に春は忙しくて、母は北陸、与謝から来た出稼ぎ民でした。蕪村は私生児であったけれど、父親に嫡男が居ないため、跡継ぎになっていました。蕪村は絵を描いたりの趣味人だったんですね。そして田地を手放し、江戸に出たんですね。室生犀星と一緒で、故郷は遠くにありて思うものだったんですね。
 蕪村が江戸へ行き七年居て、東北へ行脚して結城の辺りを転々とし、三十歳の終わりに京都に来て、あとは多少あちこちしますが四十五歳頃結婚します。蕪村は定住生活者で、芭蕉のような漂泊して地方の金持ちの家に留まって歌仙を巻く人ではありませんでした。また、時代も違います。
 京都の仏光寺通り烏丸西へ入ルで晩年を過ごします。この名作「春風馬堤ノ曲」はここで作っています。残された手紙で、借家でありましたが、お手伝いさんを置いていたのがわかります。四十六歳頃に娘が生まれます。「くの女」と言います。この娘が十五歳の時に大阪の料理人の所に結婚しますが、蕪村は半年ぐらいで娘を奪い返します。
 「春風馬堤の曲」はこの「くの女」を嫁に出して、ほっとすると同時に心淋しい頃に書いているのですね。天満橋ないし天神橋を北上し、長柄村迄行くと長柄川があります。淀川の「毛馬の渡し」を西から東へ渡るとそこが毛馬村です。今日我々がそこを歩いたのですが、大した距離ではありませんがでしたね。春風馬堤の曲というのは藪入りの娘が主人公で、ずいぶん長い行程を歩いたというように書かれていますが、案外近く、往復五千歩というから、ガッカリですね。
 天満、天神、浪花橋という二百メートルを越える木の大きな橋がありますが、これは幕府が管理していた橋です。蕪村は浪花橋の橋詰めで泊まることがあったようで、その記録(大阪へ来た)はありますが、毛馬村へ立ち寄った記録が一件もないのです。春風馬堤の曲の主人公であるこの娘は、浪花橋の橋詰めで奉公していたようですね。


 『夜半楽』というのがあります。これは俳諧を教えた人たちが出したアンソロジーです。その目録にある「歌仙」と「春興雑題」というのは蕪村先生がお弟子さんと一緒に作ったもので、「春風馬堤の曲」「澱河歌(でんがか)」「老鶯児(ろうおうじ)」は蕪村先生の創作です。で、これは蕪村の最高傑作と言われていますが、馬堤というのは毛馬堤、毛馬村、故郷を詠ったものです。堤の向こうの大川には明治の初め頃京阪電車が走る前、千五百隻位の舟が上ったり下ったりしていたのですね。


 「春風馬堤ノ曲」は俳句、漢文、書き下し文の色んなスタイルの詩が十八作集まって、あるテーマを表現しています。
序文を漢文風に書いています。
 意: 私が故郷に老人を訪ねて淀川の毛馬の渡しを渡った時に、偶々故郷に帰省する女に出逢う。前後して歩く内に話をするようになった。その藪入りの娘に成り代わって十八首作った
 この創作動機については、門人の「柳女様・賀瑞様」宛の手紙に書かれてあります。
 「馬堤は毛馬堤也。即ち、余が故園なり」とあるので、蕪村の故郷はこれをもって毛馬村と定められています。その帰省する娘の「さすが故園の情に堪へず」というのは蕪村の情そのものであることは「実は愚老、懐旧のやるかたなきより、呻き出たる実情にて候。」とあることで分かる。

1.やぶ入や浪花を出(いで)て長柄川

2.春風や堤長うして家遠し
舞台の上で、1を男が詠むと2を娘が唱和するという風に考えたらいいですね。


3.
 男が一行目を、女が二行目です。中味はミーハー調ですが漢文で抑制して品が悪くならない効果があります。













 可憐な娘の動作が、嫁にやった娘に重なって、よけいに愛おしく色っぽく見えるのでしょうね。


俳句になって場面が替わります。
5.一軒の茶見世の柳老いにけり
 土手へ戻って茶店へ戻ります。娘からいうと三年前にココを通った時より年いって見えるというのですが、これはどちらかというと、蕪村(男)の立場でしょうね。


6.茶店の老婆子儂(われ)を見て慇懃に
無恙(ぶやう)を賀し且儂が春衣(しゅんい)を美(ほム)
 春衣は晴れ着ですね。この頃は結構贅沢で、女性の髪型も簪も着物も華美なったとありますね。

7.
いいお姉ちゃんが入ってきたので、どうぞどうぞと言う訳で席を譲って茶代を置いて去った。随分綺麗になったということが分かりますね。
8.古駅三両家猫児(びょうじ)妻を呼ぶ妻来(きた)らず
場面転換しています。オス猫がメス猫がよんでいるのだが、メス猫は来ない。
9.
 いよいよ蕪村が理想の故郷へ差し掛かったところでしょうね。実際は一度も戻っていないのですが、遠くに居れば居るほど現れてくるのですね。
 雛を親鳥が呼ぶので何度も飛び越えようとするのだが、たんびに落ちてしまうという、いかにも田園の風景が(彼の理想の故郷)描かれています。


10.春艸(しゅんそう)路三叉中に捷径あり我を迎ふ
 草の生えている所三叉路あり、小径を通れば故郷へ帰れる、と書かれているが、今日みました土手に路が三つもあるのかということがありますが、これは作品ですから実景とは少し違ってきますね。
 捷径は小径であります。蕪村にとっては故郷は帰れないところです、そのため故郷へ帰る路は細くて、しかもその道が絶えるという風なことを蕪村はよく書いております。蕪村の絵にもよく小径が出てきます。蕪村にとっての小径はなにか。
これきりに小径尽きたり芹の中


路たえて香にせまり咲くいばらかな



花いばら故郷の路に似たるかな


我が帰る道いく筋ぞ春の艸(くさ)


花に暮て我が家
(いへ)遠き野道かな



 彼の故郷への道はどこかで絶えてしまう訳なんですね。それぐらい故郷とは彼にとって帰りにくい所だったんでしょうね。で、あるが故に故郷の懐かしさを感じていたのでしょう。それは近代の詩人である室生犀星の「ふるさとは遠くにありて思うもの」という定住生活者であるのに故郷を喪失しているのに似ています。一方、芭蕉というのは、漂泊者であるのに、旅をして疲れたら必ず故郷の伊賀上野に帰っているというのも、面白い現象と思いますね。

11.たんぽゝ花咲けり三々五々五々は黄に
   三々は白し記得(きとく)す去年此路よりす
故郷の光景ですね、かつて此の道を通って浪花に奉公に上がったんだわ。


12.憐みとる蒲公英(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳をあませり
乳という言葉が出てきています。彼は十三才で母を亡くしていますから、乳というのは即ち母なんですね。


13.むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
   慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
季節は春ですか、お母さんの懐には別の春があるということですね。


14.春あり成長して浪花にあり
   梅は白し浪花橋辺(ろうくわけうへん)財主の家
   春情学び得たり浪花風流
(なにはぶり)

 この最初の春は自分の青春です。浪花橋あたりのお金持ちの家に奉公して、オシャレな娘心は大阪のニューファッションを学んで、得意になって居ました。大阪に居るときは田舎者を隠したい気持ちだったでしょうね。


15.郷を辞し弟に負(そむ)く身三春(さんしゅん)
   本をわすれ末を取
(とる)接木(つぎき)の梅

 故郷を出て弟の面倒も見ないで三年たった、私は田舎を忘れ接木の梅の花のように都会の暮らしを喜んでいた、なんて浅はかだったんでしょうと、反省するのですね。


16.故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
   楊柳の長堤漸くくだれり

 夕方迫ってきて、この辺りで蕪村(男性)と別れると思われます。柳の並木の堤を下ることによって、大川と別れることになります。大阪の人間は、大川を大事に考えたいので、


17.矯首(こうべをあげ)はじめて見る故園の家黄昏(おうこん)
   戸に倚
(よ)る白髪の人弟を抱き我を待(まつ)春又春



18.君不見(きみみずや)古人太祇(たいぎ)が句
   藪入
(やぶいり)の寝るやひとりの親の側

 故郷の黄昏に、まるで三年間そこへ立ち尽くしているかのように母がいてくれた。太祇とは蕪村の友人ですが、その句を借りて終わっているのですが、娘が一人の親の側ですから、お父さんが居ません。つまり蕪村がずっと慕い続けた自分の母親の側で寝ている自分を想定しているのですね。藪入りの娘に重ねて薄幸のお母さんを思い続けていたと言えます。
 眼に見えない大川の流れというものをここに眠りの側を豊かに流れているという風に考えたい。その眠りの中を流れていると思いたいですね。楊柳の長堤漸く下れり、で大川と全くおさらばしたんだというのではなく、作品の深いところで大川が流れているのですね。こういう作品というのは、その土地に住まっているものでないと愛情が出ません、東京のエライ学者はそういう読み方は出来ません。詩を書く者の特権でもあるんですね。





澱河(でんが)の歌




 扇に詩と絵が描かれています。伏見の百花楼に遊んで、浪花に帰る男を送る妓に代わって詠んだ歌という設定です。菟というのは宇治川です。宇治川が南流して澱(淀川)に合流する。貴方どうか金のともづなを解かないで、舟はあっという間に見えなくなってしまうから。菟水、宇治川は流れが速い、澱水はゆったりと流れている。蕪村は故郷へ帰れないし遊女も浪花の男と結婚することはできない、不可能なことを願望として表わしているのだけれど、蕪村にとっても故郷は願望であるがためにこの詩が美しく懐かしい感じがしますね。この女の心に浮かぶ浪花は非常に美しい。貴方は水上に浮かぶ梅の花のようだが、私は川べりの柳の木のように動くことができない。貴方に従うことが出来ない。これは淀川を讃歌した歌ですが、

朝霧や画にかく夢の人通り
朝霧や難波を尽す難波橋
(なにわばし) (『落日庵句集』より)

 晩秋から初冬に掛けて霧が掛りますね。230メートルばかりの長橋ですが、そこに人の雑踏が見える。その橋の下を流れているのは今日見たようなのではなくもっと綺麗な水が流れるピカピカの大阪、そこで貴方と暮らしたいと、こういうふうに言っているのですね。
 今詠んだ扇に描かれた澱河の歌に「夏」と題して「若たけや橋本の遊女ありやなし」が発見されて、「秋」「冬」「春」という趣向を考えていたことが分かります。蕪村の句の中からどれを秋や冬に充てるべきか、推察してみるのも楽しい。
 蕪村の作品の構想の中には、俳句や連句などの短いものが主体であった時代に、現代の詩のような長い詩を書いて、しかも淀川の小さな叙事詩とでも言える流域の人間の暮らしという把握する視点があったということが楽しいですね。
 ヨハン・ペーター・ヘーベルが「故郷は遠く離れれば離れるほど、姿を現すものだ」という事を書いている。その、ヘーべルが土地の言葉で詩集を出したのですが、その土地の暦を出しているその中に詩人としてのエッセンスを詰め込んだんです。彼は土地の人に分け入って慎ましやかな人間の暮らしを書き込んだ、そのように蕪村も澱河の歌という作品を春夏秋冬と淀川べりの人々の暮らしを小さな叙事詩として構想していたのではないか。そうなると、蕪村は新しいなと単なる俳人ではなく我々現代詩の源をもっと遡り、源流にはもっと豊かなものがあると思わせますね。


  参考資料:『講談社・蕪村全集』他
        特に小径について書いているのは『与謝蕪村の小さな世界:芳賀徹』
        などがあるそうです。


この後、希望者は舟による淀川遊覧に出掛けました。蕪村の歩いた堤にそって流れる大川は、昔も今も一つです。

 桜の頃はその名も「桜宮公園」と、対岸の造幣局の通りぬけの桜で見事です。今回は新緑の中をくぐって、先程歩いた毛馬の閘門の方向ではなく、中之島の方へ向いて舟は滑ります。講演にあった「八軒家」は今、駐車場になっています。大阪城の石垣を見上げていると外人さんの観光客が乗ってきました。中之島の薔薇園はかろうじて見上げるだけでしたが、同じように河から見上げるビル街は、なかなかのものでした。

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