永井の作った頁とは別に、村田辰夫講師に直接の講演をこちらへお願いしました。
耳で聞くだけではなく、目で読むのが得意な諸氏には、ご期待頂けると思います。(HP担当:永井)


第12回(2005年度)関西詩人協会総会 
             11月27日(日)於トーコーシテイホテル梅田
    

「荒地」の秘密(あらすじ)


 講師:村田辰夫
  (梅花女子大学名誉教授
前日本T.S.エリオット協会会長)



  今年は終戦後60周年。戦後といえば、「戦後詩」。ほぼ「現代詩」の別称。戦前の昭和、大正の近代詩、明治の新体詩の流れを受けながらも、戦時中の種々の混乱、紙不足や検閲などを抜け出し、再出発の時を迎えた。新しい意気込み。同人誌が復刊されたり、新しいものが生まれたりした。『近代詩苑』『新詩派』『純粋詩』『コスモス』『ゆうとぴあ』『四季』『日本未来派』等々、モダニズム系、プロレタリア系、ダダ、シュール、新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)など、それぞれの主義、主張を掲げた活動が活発化した。


 その中に、戦前よりの『新領土』や新しい『荒地』がある。(当時の同人誌には、独自の主張や詩風があったが、今は希薄。)日本の詩壇は、当初から海外の動静の影響を受けることが強かった。「新領土」の名称もイギリスの1930年代の”The New Country”誌の名に負い、社会的視点にたつオーデンを追っていた。


 こうした流れのなかに、「荒地派」があらわれた。数次にわたる『荒地』詩集が刊行された。(「荒地」の名称は、エリオットの詩『荒地』による)。鮎川信夫、中桐雅夫、田村隆一、北村太郎たちのグループである。この一団の代表格、鮎川は、いくつかの宣言めいたものを発表する。いわく『平安を知らぬこと、問いを発すること、注意力の器官である耳を鋭敏に働かすこと、そして、自らの生の認識を深めるために、忍耐深く知的探求を続けること、――これらの切実な精神の努力によって、僕らは現代の荒地に立ち向かってゆかなければならない。』(「X への献辞」『荒地詩集』昭和26年版)。


 また、『純粋詩』16号の誌上では「何のために詩を書くかと言えば、結局、そういった詩の機能が我々の経験の再組織に役立ち、言葉の全体的な運動の統一された秩序の中に、我々の存在を満たすところの映像を、つまり、わかりやすく言えば、人生の形をみるのである。詩とは、抽象的なものを高めて具象的な形を与えるのであり、経験に光る固さを与えることであり、観念に場所を与えることであり、喜びや悲しみや怒りに物質的感覚を与えることであり、etc.そして最後に個性を消滅させることである。」などと誇らしげに説く。だが、「つまり、わかりやすく言えば」と「馬脚」をあらわすように、ここで唱えられている説は、すべて、エリオットの詩論の悪く言えば「剽窃」、精々「受け売り」である。すなわち、「耳に鋭敏に」は、「聴覚想像力(auditory imagination)」説、「感情に知的認可を与え、生きた統一体」云々は、「感受性の統一(unification of sensibility)」論、「言葉の全体的な運動の統一された秩序の中に、我々の存在を」は、「伝統と個人の才能(Tradition and the Individual Talent)論。「抽象的なものを高めて具体的な形を」は「形而上詩(metaphysical poetry)」論、「喜びや悲しみや怒りに物質的感覚を与え」は、「客観的相関物(objective correlative)」説、そして、極めつけは、エリオット詩学の中核的な詩論「没個性詩論(impersonal theory of poetry)」がそのまま「個性を滅却させる」になっている。几帳面さには感服する。


 結局、ここで学ばれた、あるいは、主張されていることは、「知的探求」、知的要素の導入であった。元来エリオットは哲学者であったため、彼の詩論にはこうした形而上的要素が強かった。この「知的要素」の強調は、従来の19世紀的「情緒主義」とは異質なものとして「現代詩」を特徴づけるものとなる。「荒地派」は、これを学び、日本の詩壇に持ち込んだ。(戦後の桑原武夫の「第二芸術論」などもこの影響下の出来事とみられる)。この点、荒地派の功績は認められる。だが、こうした彼らの詩論の背後には、この「秘密」があったのである。


 では、「荒地派」の元となったエリオットの『荒地(The Waste Land)』(1922年)はどのようなものであったか。この作品は、詩論とは別に、確かに英米詩壇に衝撃を与えた。それは、その手法が従来の線状的情緒の表出ではなく、断片の寄せ集めに「見える」極めて「構成的」なものであったから。隠喩、引喩の多出。出版時、本にするには本文の量が少なかった(全部で433行)ため、出版社の要請で、「自注」が付けられた。これがまた、衒学性を呼ぶ結果となった。(この特徴を踏まえたのが西脇順三郎の作品)(現代詩を「難しいもの」と印象づけた元凶は、この傾向と、幻想的なフランス象徴主義である。)


 だが、この『荒地』には「秘密」があった。それは作品に顕われていたのであるが、見落とされてきた。『荒地』は第一次大戦後の荒廃した社会情勢を描写する、などとの宣伝文句的評判を得たが、事実は、若き青年エリオットの個人的「悩み」の表現で、生と性に関するものが「聖杯物語」(不毛の土地を豊穣にかえる)を背景に、その欲望の乱れを沈静化する方途が歌われていたのである。


 五節からなる詩の第一節は「四月は最も残酷な月だ、死んだ土地からライラックを育て」と生・性の始まりが歌われる。(この詩句は有名になり、わが国ではしばしば、四月の情景、入試や就職の時期に託して「引用」されるが、西洋の年度替りは四月でない。勝手な解釈、利用。だがこれも詩の効用か。)第二節は、「チェス遊び」、男女の駆引き、第三は「劫火の説教(The Fire Sermon)」三人の「テムズ娘」が性の戯れの犠牲となる。その一人「リッチモンドでわたしは両膝を立て、狭い小船の床で仰向けになりました」。また、別の一人「わたしの足はムアーゲイトに向き、心臓は両足の下になっていました」(どういう姿勢か想像されたし。)さらに「ことが終わってから、その男は泣いた。そして「再出発」を誓ったが、どう悔いたらいいの」。三人目は、「割れてうす汚れた指で」。エリザベス一世とレスター伯の舟遊びも出る。ここに現われるのが「仏陀の火の説教」。「燃える、燃える(burning burning…)」に対し、欲望の火を消せと説く。第四節は、「水死」。苦海を漂う若者の姿。そして、最終節は「雷の曰く(What the Thunder Said)」。これは『ウパニシャッド』からサンスクリット語がそのまま、Datta, Dayadhvam, Damyata (“give”,”sympathize”,”control”)(この英語はエリオットの「自注」から。「献身・布施」「慈悲」「禅定」の意)が出てくる。そして、最後は、”Shantih, shantih, shantih”(平安あれかし)で終わる。(鮎川が「平安を知らぬ」と言ったのは、これを受けての事。)


 これを見ても分かるように、エリオットは「印度・佛教思想」を援用している。喧伝されているこの詩、つまりは「荒地派」が現代詩の旗印にしたこの詩の背後には、このような「秘密」が潜んでいた。エリオットは、こうした印度・佛教思想をハーバードの学生時代に習っていた。残された記録を見ると、その内容は、サンスクリット語は言うまでもなく、パタンジャリの『ヨーガの哲理』を原文で読んだりして、われわれ風に言えば、佛教の専門大学の博士コース以上のものを学んでいたのである。そのなかに、当時東大教授で、ハーバードの客員教授でもあった姉崎正治博士による「佛教講義」も受講している。


 こうした状況であるから、『荒地』以外にも、エリオットの全代表作、詩に限らず劇作品にも、佛教が「隠し味」として使われている。その一例を示せば、女性が午後のお茶に招いた男性に密かに言い寄るときの言葉(「ある婦人の肖像(Portrait of a Lady)」より)。ショパンの音楽が流れ、卓上にはライラックの花が置かれている。”Now that lilacs are in bloom
And [she] twists one in her fingers while she talks.
‘Ah, my friend, you do not know, you do not know
What life is, you who hold it in your hands’
(Slowly twisting the lilac stalks)”


  女性は「華」を「拈り」ながら、「手元の人生がどんなものであるかをあなたは知らない」と詰りながら、自分の密かな恋慕の情を訴える。男は、どう「微笑」してよいのか戸惑う。実は、これは仏陀が霊山会の席上、大衆に人生の要諦を説くとき、大衆はその真意を理解しかねるので、釈迦は手元の「華」を「拈って」これが「それ」だと示した。これを見て、その場にいた摩訶迦葉だけがにっこりと「微笑」し、理解を示した。いわゆる「拈華微笑(ねんげみしょう)」の説話である。


 また、「灰の水曜日(Ash Wednesday)」では、仏陀の本生譚「捨身飼虎」(わが身を捨てて飢えた虎の子を救う話)が利用されて、自己の神への献身、利他行が表明されている。(この年、1927年、エリオットはアングロ・カソリックに改宗している。)


 また、『四つの四重奏(Four Quartets)』では、「只管打坐」が出る。
”I said to my soul, be still, and wait without hope
For hope would be hope for the wrong thing….
So the darkness shall be the light, and the stillness the dancing.” “Teach us to sit still.”
(じっと坐れ。心を静止せよ。いたずらに希求するな。間違ったものを望むことになる。そこでの闇は光。心は静止しながら動くもの) 


 また、詩劇からも一つ。『老政治家(The Elder Statesman)』では、引退した政治家が今までの自己中心的な行い(業)を反省、悔悟し、「菩提樹」ならぬ「ぶなの木」の下で、心を静め、自己を悟る
”He is under the beech tree. It is quite cold there.
In becoming no one, he has become himself”
)。
そしてこの劇の最後は「生老病死」で終わる。
”Age and decrepitude can have no terrors for me.
Loss and vicissitude cannot appal me.
Not even death can dismay or amaze me”

(老も衰弱も恐れない。消滅転変も嫌悪しない。死でさえもが落胆驚異でない。)


 [講演の際に配布した「ハンドアウト」には他の諸例が出ているが、ここでは、省略]


 ところで、余談。大江健三郎氏の近著『さよなら、わたしの本よ!』には、上記の『四つの四重奏』その他『ゲロンチョン(小さい老人)』などからの引用がある。氏はエリオットの何に「感じ」たのか。「荒地」の手法も取り入れているが、内容的にはエリオットのこの「秘密」の部分に相応するところに感応しているようだ。彼の小説の第三部のタイトルは「われわれは静かに静かに動かなければならない」だが、これはエリオットの”We must be still and still moving.”の西脇訳。(だが、この訳が原文の意を表しているかどうかは、極めて微妙。深瀬訳とも違う。こうした問題もある。)


 さて、最後の「秘密」を皆さんに問う。鮎川はエリオットの詩論に魅せられた。エリオットは印度・佛教思想に惹かれている。それぞれの「秘密」。人は、思想その他、多くのものの影響を受ける。「借用する」。一流の詩人は、「借用したものを高めて」自分の作品に利する。二流、三流の詩人はただ「真似」るだけだ。そして「影響」とは、自分が「向かおうとしている方向」のものに影響をうけるのである。真似るのではない、といった主旨のことをエリオットは言うている。さて、皆さん、皆さんの「秘密」は何であるのか、今、一度点検してみてもよいのではないか。”become oneself” (自己になる)ために。また、「詩」を書くために。




(以上、「講演」の要旨。もしエリオットの作品と印度・佛教思想の関係の詳細に興味のある方は、拙著「エリオットと印度・佛教思想」(国文社)をご参考いただけれれば幸いである。)




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