第11回 関西詩人協会総会


日時:2005.11.27
場所:トーコーシティホテル梅田
開場:13:00 開会:13:30
公表会員数:322名
参加数:67名予定は86名であった(委任状110)


 午後一時開場にあわせて、九月に行われた「第四回詩で遊ぼう会・神戸ー未来へ」の編集ビデオの放映を控え室で行った。会場ではノートパソコンを永井が持ち込んで放映した。(重かった)

別室で映しているという事が周知徹底できなかった事と、ノートパソコンでの音が小さかったのが残念でした。
なお、この会のDVDを10枚売り上げることができて、会計へ8000円納入する事ができましたので、この場で御礼申しあげます。
村田辰夫氏の講演『「荒地」の秘密』はこちらへ


司会進行は薬師川虹一委員
まず、物故会員への黙祷を捧げた。奥田博之、山本耕一路、山本博文、椛島豊の4氏であった。
開会の挨拶を金堀則夫委員




杉山会長挨拶

 去年ですが北野武のお父さんのことを描いた「血と骨」という映画がありました。あの冒頭に朝鮮の人たちが日本にやってくる、そこに大阪が写るんですね。煙突が何本も立って、もうもうと煙を吐いて活気のある大阪。水の都といわれ煙の都といわれ………今の時代に煙の都というと何かオカシイのですが、活気のある大阪の姿が出ておりました。この関西詩人協会は、ささやかな集まりでありますが、その力にもなれたらと思います。11回を迎えて夢のようです。


第一部
 議長選出により左子真由美会員が選ばれ議事が進められた。

 以後、予定通り
@運営事業報告(佐古祐二委員)
A会報発行報告(中尾彰秀委員)
B会計決算報告(横田英子委員)
C会計監査報告(柴田忠彦監査委員)
D次年度事業計画案(外村文象委員)
E次年度予算案(横田英子委員)が報告され、
纏めてF質疑応答・採決に移った。
質疑応答無く委任状と出席者の確認があり、満場の拍手によって議案はすべて承認された。


新運営委員会の経過と結果発表が原圭治委員からあった。
投票者数124名(37.5%)新運営委員は
代表杉山平一、
他(アイウエオ順)有馬敲、以倉紘平、蔭山辰子、金堀則夫、神田さよ、左子真由美、佐古祐二、佐相憲一、佐藤勝太、下村和子、白川 淑、外村文象、中尾彰秀、中岡淳一、名古きよえ、水口洋治、村田辰夫、毛利真佐樹、薬師川虹一、横田英子の20名と
会計監査に香山雅代、河井 洋の2名。


規約改正については、先回の会報と同封してもあったが、今回も資料を配付して、その細かな差異等についての説明を佐古委員からあった。柴田会員から3点の提案があったがすべて妥当であったので、修正した上で改正されることとなった。
議長退任


新入会員の紹介 中岡淳一委員
出席の会員は出田恭子、井上良子、MARU、竹田朔歩、尾崎まことさんが起立して紹介された。(他に参加できなかった方、6名)


閉会の挨拶 有馬敲
 新しい役員が選ばれました。ますますの活躍を期待したい。
新しい役員の顔見せがあって、一礼。






第二部
関西詩人協会協会賞授賞式 
司会:下村和子委員





 選考委員長薬師川委員より43名の応募があり、この度の結果になった次第は、前号の会報にあるとおりである。現代と切り結ぶ問題意識が欲しいというのは個人の願いである。
 額入の賞状と賞金が杉山代表から佐山啓さんに授与された。
今回は特別に佳作の北原千代さんに額入賞状が授与された。会からもご両人に花束が贈られた。
佐山啓さんからお礼の言葉と詩の朗読がなされた。





第三部 
スピーチと講演会 白川 淑委員

軽妙なコメントつきの司会により今回で当初から役員を務めて下さって今回引退なさる役員のスピーチがあり「テレサ」とい名前のバラを含んだ花束が、各人に贈られた

青木はるみ委員
 詩を書くのは孤独だなと思うけれど、このような組織というのは創り上げていくものだと思います。古い葉書がありましたので持って参りました。最初の頃の委員会招集のものなのですが、この日に行きましたらシャッターが降りていて「休業」という札が出ていました。待ってもなかなかそれらしい人が来ないのです。通りがかりの人に聞くと「もういっこトレビがあるよ」言うのです。行ってみたらそこでもなさそうでした。また慌てて戻ったりしましたが、誰にも出会えず、私は仕方なく帰りました。結局集まった人は別の喫茶店で会合をしたらしいのですが……。
(谷川俊太郎の「おでん」の詩を朗読される)
「おでんの種たちはそれぞれ、自分が呼ばれるのが好きだ。」
関西詩人協会が大きな鍋だとすると、私も一個のおでんなので、ちゃんと名前をよんで欲しい。他の人だってそうだと思います。
 こんな葉書が来なくなってちょっと淋しいです。

志賀英夫委員
会報を担当してきましたが、途中、明珍さんを亡くしたのがとても残念でした。野瀬まで断層が走っていて、阪神淡路大震災にわが家も襲われて大変でした。機械は幸い動いていましたが、なんとかガンバッテイル内に八十歳を迎えました。




島田陽子委員
 先程、青木さんがおでんの具に喩えて話をされましたが、本当に様々な持ち味を持った方ばかりです。私はおでんの具では足りないのではないかと思っています。運営委員会に出て頂いているのは、ほんの一部なんですね。色々な才能を持っていらっしゃる方が、沢山いらっしゃるのは良く存じております。次々と新陳代謝をしていくのが良いと思っています。この会をユニークなものに発展させていって戴きたいと思います。私は今まで、自選詩集や十周年記念誌をやらせて頂きました。そういう風に裏方的にあるいは実務的にやる方が私には得意でございました。反対に会を立ち上げたり、そこで活躍なさるのが似合っている方もいらっしゃる訳で、それぞれの才能や持ち味を生かしながらやっていくのが良いと思います。私にとっても、私が出る力を出させて戴いて良かったと思っています。
 私は肩の荷を降ろした感じでホッとしています。


原圭治委員
 関西詩人協会の出発は「大阪に文学館を」という事だったのですね。色々陳情したり要望したりしました。市には、紙の上での計画は残っているそうです。まだ少しの望みはあります。今日、大阪市長選挙なんですよね、四人が揃って、「改革」「経費節減」「大型公共事業を見直す」と云っています。見直したお金を文学館へ廻して欲しいと思います。
 年二回催していた詩画展ですが、残念ながらいつも使っていた地下画廊が閉められたのです。これは大阪地下鉄が持っているものを、大阪市が借り受けて市民に開放しているものなんです。億という金を大阪市はあちこちで使っているのですが、僅か百万円余りの金を節約する為に閉められてしまったのが、残念でしようがありません。
 文学館のこと、新しい詩画展の企画などを新しい運営委員さんにお願いして、また大阪市に要望なりしていって戴きたい。
 もう一つ、詩人として表現の自由はどうしても守っていかなければなりません。憲法九条を守っていくために、あちこちに働きかけて参りたいと思います。で、倉橋さんからは承諾を貰っているのですが、二月頃に「賛否両論」という会を持って、色んな詩人の方に出て戴いて、闊達な話し合いの場を持ちたいと思っています。これは関西詩人協会とは関係なく私個人の活動としてですが。またご案内を差し上げるかも知れませんのでよろしくお願いします。

日高てる委員
 私は杉山先生を代表として戴いてやって来ているという事が、とても嬉しいんです。他の会には見られない豊かさが漂っている雰囲気の中でやって来られました。
 一番印象に残っているのは第一回の自選詩集を刊行したことです。次に「何かうちあげようや」と言った時に杉山先生に『言葉の花火』という言葉を戴いたのです。さあ言葉の花火を上げるとはどういうことか「詩劇」とかそういうものになるんですが、宝殿院の円形の会場で無理に台の上に上って貰って初めの言葉を言って貰いました。そしてこの通路のようなところをメインストリートとして左子真由美さんにシャンソンを歌ってもらったり、それぞれの詩を読んで貰ったりしました。
 関西と言えば杉山先生、小野十三郎、竹中郁、足立巻一、安西冬衛ですが、この方たちに私たちは見習って来ました。小野十三郎が関西に居を構えた時に遊びに行きました。その時『半分開いた窓』という詩集を下さいました。それは凄いと思いました。激しさは、一番詩人として持っていなければならない事と近ごろ感じています。小野十三郎は短歌的抒情の否定と言うているけれど、自分の観念の中で太らせていたらダメだと。どんな手法でもいい、徹底的にやっている人となるべきだと小野十三郎の詩『蘆』を朗読された。


福田万里子委員
 
 まだ任期はまだありますが、この三年ほど大病を患いまして、入院手術などを受けて参りました。これから身体を建て直すことを大事に考えまして一旦退任させて頂きます。
 印象に残っているのは日高さんや村山さんと自選詩集の第一集を作れたこと、と前回の関西詩人協会賞を青木さん金堀さんと勤めさせて頂いたことですが、色んな事がとても楽しかったです。
ニジンスキーというひとのことばにこういうのがあります。
「私は瞬く星の光が好きだ。瞬く星は生であり瞬かない星は死だ。私は瞬かない人間が大勢居ることに気付いた。人が瞬かないのを感じると、私は泣く。」
 「私は泣く」とニジンスキーは結ぶのですね、これは誰に宛てたというのでもないと、私は受けとっています。
 関西詩人協会の仕事の中で、瞬いている大勢の人に出会いました。私は泣く暇もなく、とても嬉しかったのを思い出します。
 少し山歩きでも始めて元気を取戻そうと思っています。


福中都生子委員
 水口さんの後を受けて事務局をお引き受けしました。可もなく不可もない事務局だったけれど、皆さまの助けを受けてやることができました。
 (夫である)彼は医師で死んで十年になります。十ヶ月ほど入院して亡くなりましたが、福中家の男は六十歳まで生きないというジンクスがあるんだと云われていました。
 アスベストの問題とか放射線の問題とかあるんでしょうけれど、彼が59歳で逝くとは思っていませんでした。そんなことで私の60代は無茶苦茶でした。ようやく70歳で事務局を預かり、70代全部を関西詩人協会に捧げる積りでしたがダメでした。
 私が意識を失ったりしたため、色々な教室や、役目を辞めてしまいました。80歳を過ぎたらもうそこそこにしたいと思うようになりました。私に相応しい最後をと思うようになりました。いつまでもこの会が続行され日本一の会となるように祈っています。
「日本人は阿呆かいな」という詩を朗読される。
村田辰夫氏の講演『荒地』の秘密はこちら
村田辰夫氏講演ご本人からのレポートはこちら


懇親会の参加者は54名と多数残って下さり、盛会であった。

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