伊藤桂一氏講演『わたしの詩の原点』

                                     2004年関西詩人協会十周年総会にて



 私の詩の原点及び歴史観をお話したいと思います。私が満四歳の時に天台宗のお寺の住職をしていた父親が、交通事故で亡くなりました。大正十年に幌を掛けている車でしたがサカサマに谷に落ちたのです。


 葬式の時、焼き場で父親を焼いた煙を見たのです。田舎の焼き場ですから材木で焼くのだけれど、死んだという認識はあったが、煙を見て「何だろう」という気はありました。


 私が二十二歳の時は、中国の山西省と云う所へ騎兵連隊として行っていました。岩石層の上に何十万年かの間に積った、黄土層という層があります。見渡す限り砂埃が舞っている凄いところなんです。たまに雨が降ると水が黄土層と岩石層の間に溜まって、層が緩み崩れ流れて、崖と深い谷間ができるのです。土地の人はその断崖を掘って近道を作ったり、穴居というのですが、家にしていました。一歩誤れば谷底ですから、その断崖を通るのは非常に恐かったですね。


 蒋介石の部隊は日本軍がそういうところを通っていると、鉄砲を撃ってきますから、戦闘になります。部落があっても敢えてそこへ泊まらないで、谷間の見晴らしが良いところで野営をします。馬も兵隊もそのまま休みます。


 夜になるとその丘陵地帯で狼が遠吠えをやるのです。哀しそうに聞こえるけれど、ウサギや狐などの小動物を食べて、狼としては愉快なんですね。狼が詩の朗読をやっているように聞こえました。


 迫撃砲に当ると兵隊は死ぬんですが、死ぬと騎兵連隊だから馬の上に伏せに乗せて、引っぱって焼けるところまで行って、焼くんです。その煙が靡くのを見ていて、どこかで見た景色だと思って、そうだ父親を焼いた時見た煙だと思いました。そして「分かった」と。

 何が分かったかというと四歳の時、分からなかった「死んで焼かれる」という意味ですね。

 死んだ兵隊というのは僕らの仲間ですから、兵隊になったときから「人間は死ぬときは死ぬ」という覚悟はできていました。何時かは自分も死んでこの山の中で焼かれるのじゃないか、それは悲しみや恐怖ではなく悟りでした。「死ぬ時は死ねばイイじゃないか」と考え方が吹っ切れました。この運命は逃げようとして逃げ切れないし、逃げる必要はない、兵隊はお国の為に戦うのだから元気で行こうじゃないかと思ったんです。

 十六歳から二十歳の軍隊に行く前の五年間、短詩型の文学を一生懸命に勉強しました。財産がないため学校に行けない「学業は無理だから文業で」と、暇さえあれば文字を書き、読んできた。その結果が友を焼く煙を見て目覚めたのですね。詩は弾が飛んでくるような所では無理なので、歌を書こうと思ったのです。
 その時に詠んだ短歌です。

この山は死ぬるに寂し水湧かず鳥啼かず樹に雲も行かざれば


兵いくた崩れし廟のかたわらに静かにいます息絶えしまま 


けむりけむりあわれ晋南の山奥に屍を焼くけむりひとすじ


 生きていたから今日も無事だったと思う毎日だったが、戦争の中で良かったのは、人の死を煙の中に見たということで元気を出した事ですね。最も悪い状態のなかでも前向きに事を進めるという徹底的な肯定する態度です。あとは、元気を出そうとする事です。


 『竹の思想』という詩集の中から

「水車」

ぼくは ふるさとへ帰ったときに
まだその水ぐるまをおぼえていた
けれども向こうは ぼくのことなどとっくに忘れてしまっていて
ゆるり ゆるり薄のなかでまわっていた


 詩の原点というのは、意地の悪い運命も否定しないで認めて、風が吹いて来たから吹かれたんだという、竹みたいに肯定的に受け取ればいいんですね。

眼にも見えず耳にも聞こえずただ無心に天に騰がってゆくものだけがある


無常観があって無常観でない肯定が、四歳で父を失って訓練されてきたと思う。
戦後の自分の信条にしている言葉が『竹の思想』にあります


人に与うるものなければあたたかき誠を尽くすべし



自分には何もないけれど自分に添った能力に応じて人に親切にする事はできるのです。これは自分を戒めている言葉なんです。人はみんな共生しているのです。一人が死ねば、死ななかった人間がその代わりを生きているのですから。

講演に続いて「伊藤桂一の詩の世界『竹の歌』幻想」と題して釋恵一氏のピアノ演奏と下村和子氏による詩の朗読。続いて同氏作曲の歌を釋まなみ氏によって歌われた。


沢山おいで戴いてありがとうございました。








inserted by FC2 system