2003年11月30日関西詩人協会総会のための講演

田原氏の講演
                『中国における日本の現代詩』


田原氏は先ず、中国で発刊された日本現代詩のアンソロジーや雑誌のコピーに沿って説明された。
2001年出版された『日本現代女性文学集』には、青木はるみさんも入っています。 『日本当代詩選』は、1987年発刊で約6500冊出されました。これには関東の詩人を中心に訳されたようで、関西は小野十三郎さんだけです。 『日本戦後名詩百家集』は2000冊、有馬敲さん、青木はるみさんなどの関西出身の詩人が入っています。 『日本現代詩選』は1983年刊行され、二人の共訳ですが、戦前の詩人を中心に編集され、戦後の詩人は入っていません。
2002年出版された『当代外国詩歌佳作導読』には、大岡信、谷川俊太郎、新川和江、さんが入っている 2002年出された『最新外国優秀詩歌』は田村隆一谷川俊太郎だけです。 『二十世紀外国著名短詩101首』には与謝野晶子、谷川俊太郎が載っています。
「WW」というのは『外国文芸』雑誌です、上海の訳文出版社に所属され、当代世界各国の作家や詩人の作品を取り上げて紹介する隔月刊文芸誌です。 『世界文学』は北京中国社会科学院の外国文学研究所に所属するやはり隔月刊雑誌です、この雑誌はあらゆる国の古典的な作品しか紹介しません。

★日本現代詩の翻訳というと、先ず思うのは魯迅の弟・周作人が「仲密」というペンネームで1920年7月2日の『晨報』副刊に発表した石川啄木の詩作品、これは初めての日本詩の中国語訳です。1950年代(?)頃、周作人により、中国版の『石川啄木詩選』が出版されました。

★中国現代詩は胡適から始まったという説があります、この方は詩人・学者・政治家でもありますが、1930年代後半から1940年代前半まで国民党政府の駐アメリカ大使を務めたことがあります。1917年、『新青年』という雑誌に「文学改良卑見」の論と現代詩作品を発表しました。1921年初めて『嘗試集』という個人詩集が出ました。
 日本といえば、1882年に外山正一『新体詩抄』が出てますし、1897年島崎藤村『若菜集』という個人詩集が出版されました。胡適と藤村は共通点のある詩人ですが、二人は同じ七一歳で亡くなりました。これを見ると、中国現代詩は日本現代詩より約二十年ほど遅れています。

日中戦争まで、日本文学に対する翻訳は正常に行いましたが、戦争が始まったことに伴って、翻訳は中止せざるを得なくなりました。戦争が終結してから、一連の政治運動と反日感情によって、翻訳紹介は殆ど行われませんでした。1980年代の改革開放の頃、何人かの日本詩人が紹介されたが、残念ながら中国の詩人と読者に注目されませんでした。
 1999年の谷川詩の中国上陸は長時期にわたって「日本にはたいした詩人はいないだろう」という中国詩人たちの持つ日本現代詩へのイメージを変えた。ある意味で、谷川俊太郎は日本現代詩を救ったとも言えます。

★戦争、政治運動、自由に表現できないという苦難を嘗め尽くした中国の詩人に比べて、平和、自由と豊かな生活環境にいる日本の詩人はずっと幸せだと思います。しかし、苦しむ体験は詩創作にプラスだと考えています。例えば、詩人牛漢が文革中に強制労働させられた時、書かれた「半分裂けた樹木」という詩の最後の一句「雷は遠い彼方からやつを監視しているはずだ」、ここの樹木は雷に裂かれたということですが、この「雷」はやはり当時の暗黒の勢力を暗示していると思います。これは当時の中国の厳しい現実です。詩人たちは明らかに表現できず、投獄され、迫害される恐れがあるからです。

谷川俊太郎さんは多彩な創作手法を持っている詩人です。例えば島田陽子さんにあるエンターテイメント的な手法「言葉あそび歌」とか、純粋詩の「言語本位」の手法とか、生活に密着する「人間本位」の詩もあります。これは殆ど一つの書きかたで終わってしまう詩人にとって凄いと思います。

日本は中国現代詩にとって、第二の故郷とも言えます。清末時代と中華民国の頃、たくさんの政治家・文人・学者たちが日本に亡命、或いは留学にきて、当時の郭沫若郁達夫らが「創造社」を作って、いろんな文学活動をしていました。これは中国現代文学にとって大きいことといえます。

★現代詩の翻訳について私の考えは、いったん一つの言語から一つの言語に訳され、もう既に誤訳になってしまうことです。生硬的な直訳、或いは教条的な訳の仕方を考えてはおりません。現代詩の訳者は柔軟さを持って、ある限度と範囲に、自分の価値判断で訳さなければなりません。一番大事なのは、自分の母語に訳す時、一篇の完璧な現代詩作品として、成立させることだと思います。



★ご静聴、有難う御座いました。






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