日高てる氏による講演 於 2002年関西詩人協会総会
「創造的行為としての詩の朗読」
下村和子氏より「二〇〇二年度先達詩人としての日高てる氏」の紹介があった
講演をするというより、そこで朗読を演じる為にステージを空けて端の方へ演題が用意されていた。
私にとって詩を創るのは創造的行為なのです。その詩を朗読するのはさらに、もう一つの創造的行為なのです。
朗読の始まりはインド舞踊のシャクティとの出会いによります。私が詩集『闇の領分』を出したとき、彼女は母ヴァサンタマラとともに父チャクワリティの遺骨をガンジスに水葬し帰国。彼女の跳躍ぶりに感動し意気投合。インドの大地に根ざしたインド三千年の眼差しのシャクティと、日本のささやかな女性の闇を追うささやかな詩と共演しようと。
でも、前から素地はありました。 東京での「歴程祭」に朗読しています。また、二十年位前に関西で歴程祭をやった時、杉山先生が「日高さんの詩は難しいけれども、あんたが読んだらよく解るわ」と言っ下さった。上記の事がきっかけとなり一つの文学運動としてやり始めたということです。
詩の創造については、創作態度は人によって違います。例を「春の触手」にとり、これは朝日新聞の注文に応えて書いたもので、はじめに触手という言葉が頭にひらめき、構成して「春の触手」となったのです。このように詩は言葉で構築して行くのです。
では演題である詩の朗読に戻ります。はじめに申しましたように、詩の朗読は「もう一つの創造的行為」なのです。
かつて、詩は音声で始まりました。心が声として呼びかける音声として。古事記の伊耶那岐神、伊耶那美神を待つまでもありません。
以降活字文化が発達し、視覚を通し紙の上で読まれる伝達が通常のように考えられてきています。けれど、私は一篇の詩が誕生した時点でのポエジーを声として読むあり方、真音として読むことをと願う者で、心拍も呼吸も含まれます(技巧的ショー的、ボクシングも上記にかなえば可。
先般、この試みの様々な記録を「声を立たせる・言葉を立たせる」として上梓。
朗読は瞬時にして消えてしまう。例えば空間の水の上に落ち葉がひらりと一枚舞い降りたとします。比喩的に言って、それが言葉の点、実存として詩を読む初行が始まります。それをドラマにしたり、他ジャンルと共演したり、部屋全体を言葉の坩堝にもできます。
『カラス麦』の朗読をされる。
「ARNOLD SCHOENBERG」の『月に憑かれたピエロ』(テープ)と共演して『カラス麦』を朗読された。
福武京子さんの英訳と朗読の共演で『水ヲクダサイ』を朗読された「書との共演」も面白いと話される。
「カラス麦」の棒線の部分に会場から男性三人と女性一人が出てこられ即興の妙味を披露された。
質問 落ち葉がパッとおちた瞬間がと言われましたが、自分の背中に白い翼が落ちてくる時を待っているのですが……待っている時に寝てしまうことがある。
日高 それは素晴らしい。夢の翼にしっかり捕まりなさいそして、言葉に。
質問 詩の朗読の声のトーンが低い方が良く入ってくるように思いますが……難しいです。
日高 低い音は心の芯に響き、水のたゆたいのようにすばらしい朗読です。
日高 終わりに、芭蕉の言葉を贈ります「舌上に千転すべし」と。それは推敲や構成を言っているのですが。読むと言うことの意義です。言葉にして載せてみると魂の漂白ができます。
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